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2021/05/15
山や阿修羅界隈で見つけた
まぁ、下記のまろやかな世界系調査文などを、もっと纏めれるとして働き手にリターン(リリース)出来れば、追い抜かしは無い気がする。私も本当の苦労はこれからである。
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2021/05/15
仏陀は、
我ら親よりも海に出し、絶対に違うぞという船の、ゆくえの成功を願う事が、新しかったのた。
ただ、シッダールタと叫ぶからには、悩みがなさ過ぎた。それを補って埋めて行くのは私たちの精神。
シッダールタと云うからには、自分も寺かと思うが行き先は神社、で有る。
悟りとは、「私も仏陀になれますように」と神に対して願うことだが、気分が低迷している。毎日妖怪を見ている。要は、自分の徳は土地から聞けるし、徳が何となく分かれば、性格を信じれるように高めたら良いのだ!
高めること自体にそれが有る人も、頷くこと自体にそれがある人も、観察していること自体にそれがある人も、孤独でないこと自体にそれがある人も、
光は“それなり”の形をするし、心が清々しく、楽しいと思うなら、やらないと。でも、間に間に沢山の茨があって、その時は回り道をゆっくりして諦めないで居る事かも知れない。自惚れとは、優しい気持ちがする、自分を好きとは、眼前の相手を見ないとしても、勇気を持って勇気と云う抵抗がある限りは、そして上にジャンプして、立ち止まる。
愛情を持って考える事も出来るのだから。
折よく、機械だと自己を見なしても、いつまでもそう思った主観は、自我として有るのだ。霊の根本的に、それを実存と云って、「私は夢を見る」と云う気持の至って本質よりも長者としていずれも在るかのように思えるのだから、映画はいつだってちょっと哀しいので有る。この事を、こういった「水平」な事を、世界の定位置として、及び天地の線を引くこととして、人間の心に刻まれたら進むべき一歩を格段に縮める事が可能だと思い、何かを考えてた映画の続きを描いて、観て知る日が近づいている。
海の幸である「不幸論」は、幸福を諦める安き事では無い。ひたすら続いて行く事を受け入れる為の、綿100%クッションは手縫いで有る。
如来壽量品を訳すると
https://video.fc2.com/content/20210530FK1XT7gk
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2021/05/15
「許せない」気が起こって来るのを、細やかに宥め、努力して。
ぼうっと来る怒りと、云うのは、大抵自分の失敗について思うので有り、すると、失敗したと認めれば、対価として正しい道を戻すことが出来る。「悔しい」と云った思いとして、恥じらい、生を濃厚にする為に生きる。
(愛から)離れられないのが、定理として、これをそこで発見した。人間であることが実存的にあって、私は構えて居る。離れる事が出来ないという態度に関して誇りを持って、構えて居る。
気持、と云ったわりかし、小さなものに、これだ!と云ってやまない。人間、と云った霊長に対して、People
と云ったアホらしさに対しての回答が、「気持」だとか云う事に於いて思うのは、悲しさの余地が見合って、相当美しいと云う事で有る。何か感じる肉体の悲しさがその精神と和合する云う事で有る。
全身で「悲しい」と想った、白人の人に対して、理屈が、同じ位の深さなら、まぁ、この言葉の意味を許して貰えるそうな。
私にとって不都合で有るが、こう云う広大なまでに及ぶ心の清澄は大澤氏の赦しの努力が起源となって居る。「私」は生まれて、「あなた」、母たちを見る瞳、仏などに従えて、いったん大澤氏から嫌われてしまうと、もう這い出せない危険な気持が何となく不快なのはわかるだろうか。
この様な水に対して、心は、最初から何もかもが複雑な事であると決まりきった様に、心へ簡易に着する。「見上げれば千のタンバリンを打ち鳴らした様な星空」
京都の芸術で見かけるが、複雑で有る程天体に近いのかな、と思ったので有る。
機械の片付け方を、何者かは既に知って居るのかも知れない。
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2021/05/15
中国人に、裸一貫で、と声援を受けても、気持ちのカムフラージュをする事が多い。
私は、女で日本人だ。多分、拳に反すから、誤魔化し続ける事をお許し下さい、それは決して醜いかもしれないが。
心一つで、と云っても、こちらは森だったのよ。草茂って居ただろう。理に反するから、宜しくお願いします。間違ってはいないけど条理が立つ。
自分を知られない事は哀しいし心細い。「自分」とは?を、答えられなければ、人間の役に立たない。私は失っていた理論をせっせと上げる。
「どう思う?」と、側のギリシャ人に聞く。
我ら、日本人は波しぶきを上げないで、勢いを余らせないで、冷静に、若しくは沈着に、
発言してみる事の、それは世界的なユニバーサルの社会性に遭遇する。新しい「アピール」。
これはコピーではない。書物の持つ滑らかさを気に入って、絵の背景や空白に切り込み、飾るように歌舞伎絵をイメージしてる「走れメロス」の、富嶽百景の1ページ。
木原氏が、昔、小説を千切ってキャンパス一面に貼り付けて居たが、何かに対する物凄い抵抗と生み出した「発言」で有った。その横で日々私は未来や将来や今だと云った哲学より、母の他界、とゆうよりは18だったし、疑い深かったし、違和感と、そこから来る世間ズレを悩んで居たのだが、木原氏の「発言」に対して物凄く敏感になるが、そういった事は誰も助けてくれない。皆が「ひとり」であり、苦悩とモチーフの間にある恋など、が、自由に散漫した美しいアトリエの中。
褪せがないことを驚愕するが、「木原氏、歌人にまっとうな客観性を。」
あなたに対する震えを、ただのヤキモチに纏められてしまってはいけない。抱え込んで、発酵させていた。迷惑な音楽家よ散れ、こんな思いで私は立っている。そんな心理的な事はいまのアートにとっては邪魔で仕方が無くて、詩的な佇まいというものがからっきしほとほと下手な大澤氏をどうしても黒く考える。
私は気を使ってるし、わかってる、云うぞ、自分の霊感は偉大だと。
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2021/05/15
「こう考え。」って言ったら、
あかんところはあるやろな。
日頃考えてる。
大澤さんの瞳の作品を見ても思うのだが、
手筆からキャンパスに零した絵の具や印刷が、どう落ちてどう形状するのかは、その主観の自由で、
自由は、利己的な理想って言う重力の中で、耐えて、ぐっと我慢して、千差万別の思考を生み出す。星の様に。
これを「緊張感」といってもいいだろう。
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