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2021/03/29
龍日記
スピードと云うものが私にはなかった
百合に魔が集まるが
現実的な「成果」というものをあげられなかった
登った階段を降りられない人たち
道標を示してあげたいのだ
降りる事も出来たら、点と線は繋がるのに ふたたび
前を向くといったって、かえって回顧することになって流される
正しい言葉の灯(あかり)がないから、水かきがなくて岸に上がれない、という事であり
心の
宇宙の
薄暗い中に言葉を生み出すのだから、実は大変な事なのだ
上に積み重ねる方法は、
上昇する方法は、
辛いことを言葉にして覚える
辛いことを中途半端に忘れるから、何度も繰り返すのだ
やさしい火が生まれて、それから止まらず光るままだ
薄暗い中でも歩ける、魚(な)が泳いでいける
灯を作るのだから
水(感情、むかつく、この人冷たい!)をしっかり切って、考える事だ
この冷たい想いを、「水」だと認識して、本来の力をもって泳ごうとしたら、ここが海や湖、川、だと「わかる」。
孤独になれば軽くなって
魚が笑う
肉体を愛すとしても
想像を愛すとしても
どちらも精神的なんやろな
何を愛していたか
愛しているものはなんだったのか
そこからパワフルな力が生まれる
あなたが何になっても結局あなたのまんま
ところで、全体的に見てみると、私は延びててもさして大丈夫な者なんだろう
▼
龍日記2
地を聞ける天を
地の方が聞(聴)いて下されば、
木は
根を張って
木は「飛ぶ」と云う構図を持つことができる。
木が落ち着くことによって
地が生まれ、方向(天)が生まれるからだ
私は地(はね)をもがれて
飛べなかったのだが
自分の中に天があり、
また他と自分のそれが異なる
このことが、地の事である
ここからつたうことで
世界理解が全然違うし、
三千大世界を叶えられる!
・父の肖像と云うものが、メディアによって
明確化して羽をもつ私たちの代は飛ぶことが比較的簡単で、
またブッダの躾が、飛べなかった世代への思いを届かせてくれる。
・話し合う事か許されないといって、
迂闊に削ぎ落としてしまったら、
目は生きてるし
何を信じていいのかわからない
少しのズルを可能としなければ。
「スマホ」といった「物(物作りの物だから、埴輪や土器など、飛びたい精神と同じくらい高いと思うのだが…)」を使用するのも、神職等以外なら良い気がしてならない。
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2021/03/28
無断でどこまでいけるのか
これは大澤氏のイラストであるが、
どこまで今の自分というのが許されて
どこまで自分で居れるのか?
という「アート」である。
昨夜、「君」が生まれて同時に母が生まれ
この絵画のスタイルは15年ほど前から考えていて、
歩みを進め、
大澤氏と同じ答えといった扉を開けて 、そのまま何も聞かず制作するよう(に取り憑かれた?)だが、確認の間もなく言葉を挟んでも良いと思うのだ。
「息を乱して作品を描いている。」ということだ。
イラストでも、人間が精神となり
物事が芸術となると、顔を変えてしまう。この壁は厚い。
私が精神になったのは、龍の背中を追いかけたときである。あの自由。あの姿はどこから来たのかは分からないが、自由と云うレベルの緊張感を彫ると龍が出てくる、緊張感を彫刻した者に
緊張感の概念とは、間違わないでほしいのだが、私の言う緊張感は黄金比の中にいる時のテンションだ。単に気を配っている状態や、姿勢のようにに限らず、四角から生まれる龍もいれば、月から生まれる龍もある。文章から生まれる事もある。
自由自在であることだ。
アートをしながら龍を彫る。自分の一番優しい姿なのかもしれない、そこに愛や恋や友情などの見返りは無はずであり、潤った滝を住まいとしたやつなのだ。冷たさが心地の良い日がある。水の精霊である。
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2021/03/28
山菜
冬に大根等の根を食べ、春には芽を食べる
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2021/03/27
雲
何度泣いても足りないような
なみだの滝で
優しくなる、まっすぐになる
形として認めない
光として念じる
痛みを感じて
冷たくとも心を開いて
龍はそもそも水の精霊
気をちゃんと使(おうとする)う気持ちが龍の通れる道を作る
自分に恋して暴れようとすることの自制心に爪や牙、龍の骨格が宿る。緊張感が生まれ、背鰭が宿る。
人間界に追い出されたやさしさ
を、
「人間」と云う彫刻の内で学ぶ
このような精霊だ
☁️
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2021/03/23
事実はわからないが、
「エロい」という嫌らしさは、
自ら嫌らしくなってみたり、嫌らしくなりたい
それを叶えることで、全て不吉な事から何だか間逃れるのである。
自分に立ち返る事に関して浪花的にニュートラルを整える事に対して大阪さんの着目したことは民族的に熱を持ってみる事である。その熱を帯びることによって、誰かと仲良くなったり、他者に近づくスピードが格段に感動的に早いのである。人は、無意識やDNAによって想像が各々で繋がる、高いことほど人はわかるし、かえって理解しやすいのだから、だがそれに対して物が足りていないのが残念である。良本からの知識、芸術、足を運んで文化を養う事、そういて、なんだか確証出来る外形だけかも知れない詰め物である。良本といえば、岩波がプライド高いとは聞くが、ジュニア文庫も出てるので個人的にこれは楽しく噛み砕きやすい。だが、いきなりルソーやヴィトゲンシュタイン、を読んだってお得なことはある。
フロイトが一般の私たちに伝えるのではなく、精神科に向けた専門家だと自分なりに理解することが出きる。医者に話した方が納得出来たのである。
主義、思想を読んでいてもそもそも何故人が主義的になったのかが一般的にあまり不明で、その辺の人はただ共通のことを会話してるだけかもしれないと思うのだ、思想は哲学の大爆発であり、理性の努力によって生み継がれる命であり作品であるからいつまでも弟子に大切にされているのはその光である。人文書は光を守ってきた痕跡や忍耐であふれかえっている!
例えば構造主義とかは「私はあなた」という考えで、それを「構造」と名乗るのだから、え?いくつ何を前提にしてんの?って考えたら何だかとても美しいのである。ポスト構造主義は、「自分があなたでない、人と自分は違う」事を学び直したのだろう。
これらをうまく纏める事が今ままなっていないが、
ごはんの一粒まで考えたい人もいるだろう。
今バタイユを読んでみても、題の云われるエロティシズムはどこまでも主義なようである。つまり、恐らく、ただの嫌らしさがこういった努力によって芸術になって…はしたなさというのも理性に対する言葉だが、これらから人間として独立した時の産声である。つまり、主義とは理解はできても使用する為の物ではなく、心を持った人間的なが実行するから主義なのである。
とすると、嫌らしさをまかせあって受け止める主義は何て名前だろう?
一ページ10分かかることの、硬質な文面たちだが、噛み砕いて意味がわかったら、普通に真面目にしている方ならセカイのあらゆる意味が最高に繋がってもれなく今なら神となるだろう。
ちなみに私の今読んでいるのはマルクスの資本論である。1日2ページでまだ10ページ。
何がしたいとか磨いておくことによって、効率は更にそれを文章にすることが出来たら勝手に上昇していく。
私は魔女になりたかった、法華宗はやや世間に寄るらしく、圧し殺して気付きもしなかったが、私は良いおまじないをすることがとんでもない好機に繋がるようである。
早く何かせねば。。
私はこれがしたいです、でおしまいじゃなくて、これがしたいと思う、こう書きたい、こう考えてるは、ノートに書き、本番ではそれにそって自分の希望を詰め込んでいく感じだ。言うことと次回に使うことと言わない事を分別し、言えないことをどうにか言う工夫を、喋る工夫をするのだ。高ぶらないでノートに、冷静に分別するのだ。このやり方で黙れば、それが内に秘められ、何故だか文章に光が出てくるし、性格さえ良くなってくるのだ。ただ、文学とか文章とかを羨ましいと感じた人に限る。そうでなくては周りから解離して孤独になってしまう。まぁ、それをノートに纏めてスタイルを決めたら。
おっさんを見てみたら、思考をノートに纏める努力すら放棄してにこにことしている。それはそろばんの暗算系である。
作品というのは美しさ、つまり詩的な要素がなければ、そのタイトルを名乗ることを許されない、つまり作品と呼ばない、芸大はそんな環境だった。年配の方の話に関連してちなみに詩では、こう書きたい等の願望は、書き続けることによって最終的な回答として浮き出て来るが、作文なら多少の願望を叶えていかなければならない。何が言いたいかというと、社会の上で折れなかったり流れない為には、動いてしまったとき、「こう思ったので」という正直な、コミュニケーションを途中でやめたかのような定型文ではない、他にない理由を、言ってみることが、「話しかける」と云って、ナンか言われるとしても少なくとも相手の事がかわかるのである。何か言いたいことを「最後まで」言うにも、粘り強さが必要なのだ。つまり悩んで考えるために本が役立つのである。
一個悩みが出来たら解決するまでうんうんいって書いたり思ったり、悩みくだけた後にさらに一つの文を作り上げ何事もコンパクトに悩みを持ち歩ける。それなりの解決であっても確かに学びのペースは維持出来るから、これが正しいではないけど、悩みを吸引する方法としては、こう。恋の実戦としては、やはり歩くとは持ってるものの範疇で、人殺しや調教など高望みをせずに恋やってみることである。そんなことをコツコツやっていくうちに憎しみさえ分解できるはずなのだ。
日本人という曖昧なアイデンティティーを通りすぎて和の民族性に火の付いた大阪さんは、理性的に願望を叶えていく。
ああ、肯定するな。
しっかりと肯定して、この私の目の前を立ちはばかるのは一目で大阪さんを好いた女の数である。
それにしてもみんなが嫌らしくなってしまって、うはうはである。
良い予感のしないことこの上なく、だが
予感等に執着しない大阪さんの大きなマラは、どのような差別もない精神のもとにすっぽり包まれ桃色である。
力ある計算で脱力的になった事の、他人の欲の無い笑顔が嘘のように成功したのである。
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