揶白 (KF)

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揶白 (KF)

絵画

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    Works 46
  • 学問的存在者(レス・コギダンス)

    無について読書して居る。


    カント…「無の哲学Ⅱ」 福岡正信

    俗である
    時空が若し、純粋な思考の諸形式
    「私」の範疇であるならば
    時空を越える、とは余りあんまり夢のない事、
    一見して俗(ただもの)を超えていく

     

    俗とは、私に無を教えて呉れる(手におさまりきらない事から)
    世の中は、私にマイカラーを教えて呉れ、(色とりどりなことから)
    笑顔は、その色がどんな煌めきかを教えて呉れ、
    浮く笹(うきよ)は、私に明日を諭して呉る。


    ハイデガー「存在と時間」…実存とは 現存在は、みずからの存在そのものにたいしてさまざまな態度をとることができ、またつねに何らかの態度をとっているものである。わたしたちはこうした存在そのもの(ダスイェーニゲ)を、実存とよぶことにしよう。現存在という存在者の本質は、それが事象として、「何」を含んでいるかを示すことによっては規定できない。この存在者の本質は、みずからの存在を、みずからの存在として、存在しなければならないということにある。だからこそ、この存在者のよびなとして純粋に表現する言葉である現存在という語が、選ばれたのである。

     

    「実存は本質に先立つ」超越論的な真理、主題、一つの類のようなもの、普遍性、

    それでも本質を諦めたくない。


    「私」が時空の中に居る、と云う事がもっとも豊かである。時空を、其れをどの範疇で言うのかは、国々や思いによって違うだろう。
    我々、「私」の盲点として、
    知識は欲しがるくせに
    中国には 今だ「経験させてもらうには値しない」
    させてもらう、「私」はこの角度からささっと入り込まなければ漢詩を知り得ないのだ。


    アリストテレス…「存在は多様な意味で語られる」
    ハイデガー、カント…わたしたちの周囲を見回してみても、大地があり、樹木があり、小鳥たちがいる。これは自然の事物であり、生物である。さらに家があり、机があり、書物がある。これらは日常生活の道具である。これらの事物や道具がわたしを囲み、わたしたちの日常生活を作り出している。

    デカルト…「レス・コギダンス シウェ・メンス・シウェ・アニムス 思惟するもの、すなわち精神、すなわち心

    惟(おもう、これ、ただ)」

     

     

     

     

     

     

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  • 哲学に於いての良文

    今更ながらカントを読んでいる。

    岩波の篠田英雄訳です。

    大正七年。

     

     哲学と云や詩的な性格も備えているためなかなか思えぬ事で有るが、此方のカントを訳し切られたのちの前書きを信頼した、そうゆう事が書かれて有ったのである。

     

    (「実践理性批判」に初めて接する読者ドイツ語を知ると知らざるを問わずに、せめてこの訳書によって原文の意味をできるだけ忠実に伝えるに努めることよりほかに何ものもない。このことを為すに当って、すべてカント自身の著作からの引用とはいえ多くの注を加えたばかりでなく、しばしば訳者の説明句を挿入したことは、古典の翻訳としては確かに不体裁を免れないにも拘らずこれを敢てしたのは、読者が相成るべくはその時、その場で文意を理解するに便ならしめるためにほかならない。カントの言うように、哲学は哲学的知識とは異なる、哲学は学習せられ得る学ではなくて、我々はこれによってせいぜい物を哲学的に考えることを学び得るだけである。)

     

    カントのこの本は純粋理性へ批判されるのでは無くなんと実践できる純粋理性が存在する、らしい事から書かれてあります。

    一ページを捲って、

    私は対象を哲学そのものとして、「純粋能力は実践してきた性のうちにあるのだ、」と自己の哲学それへ噛み付いて云うが、やっぱり「誠に実践理性されてる事は、言葉としてフィロソフィーと云うのしか得るものがなくて、フィロソフィーと哲学は違う」と思い、若しくは実践する主体が日本人は其呼称を抱いてわざと逸れているか、

    詩に似ている若しくは分かれない事柄である、書かれて居る通り何故か哲学は行うこと、で有るから「する事、やる事」ではあり得ないのである。重くあれど軽くあれど翻訳亦、学問はついやせばこう、皆で纏まらない言を一列としてくれる。

    時と神を友にし。

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  • 愛と美

    美しさを受け入れるには愛がいる。恋(や)めば亦、

    何が愛だかわからなくなる。

    私は自分のあどけなさを愛していた、

    …愛らしさは大事にするものだ。

    何がかあなたのそれか分からないけど

    愛らしさは大切にするものだ。

    花に例える、恋を、

    幾らも花弁のように、一枚、一枚とページを捲るように私たちは果てしない次元をゆく。

     

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  • 詩「焼き芋」

    此(こ)れは大学の同級の子の亟(すみ)やかな言葉から始まっててナ、私は此れを売ってナ、経れば経るほど当時の想い出は掠れて行く、ぎゃくに真實が真實として虚しき心のもやもやしたのが削られてからに、かなり慎重に私の想い出も今だに清きよと(慎重に)特に覚えもせず、忘れても居ない正常な状態を保持してる。彼の優しさもしっかりとわざと覚えてゐて、偉い事に偉く為りました。まさか亙(こ)ういう“話”だとは思って居ない私も亦、世(よのなか)で有ることに違い無い、其れなら其うと云うて呉れれば亜(あ)んな悔しい思いもする事無かって、幸(こ)うゆうのが人生で有り、何も無い私をしつけて下さった仏陀の葩(しろ)さから匍匐して彼とのやたらいとおしいディスタンスを今だに抱える。
    弥勒に逢(あ)えなかった此の其の裂けた惚れヤ、女(にくし)みを“丈夫”で包み込んで、私は持ち得る曲線を抱え、とにかくきっぱり解(わかれ)る。「南無妙法蓮華経、丁(わか)ってひかる不(かんざし)だ」と、秋沙と云う鳥の第一発見者として四十の旬(おっぱい)の栄光をはやす、どうだな、どうだな。太古のお悪(わ)らない恋をさせて実態(しも)たのは私の敵(なん)やったので御座いますか。お前も私もろくなことに落ちてトライ、私は詩の慰めであなたを怒ったから空から水に落ちて不安(ふぁん)ながら花の淵で泳いで居ます。

     

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  • 後腐れのありませんように。

    文-------------------------------------
    十字架をしょう事も詩を聞くのも、我が選(つく)つたので、其れでも“間違つて居ない”と云い、良かつた、良かつた、と励んで、心は嘲い、何て不細工か思う。
    想(まさ)に雙め、男(おに)に圭がアドヴァイスが出来るなら火に手を突つ込むくらいの事をしないで居ると、接、お前は花緒(かお)を真つ赤にするべきなのに、よう涼しいナ。
    後にと錯覚もするが錯覚で有り、此れも事の流れと云うものを知らない素振りで嫌、ちんたらな約束等ばかりが恋しいと、偉(おに)、世の中を我が物なんを挙げ句。
    月の登りを見ました、弟子を連ねて龍の様にもやしゅだら。「安穏」と仰って云いました。月が圭たちの世話をして居たから、ぼうぼうと「愛してる」などを圭はほざき。
    お前、男(おに)は居ます、お前や圭の心の中に結局。やや圭はおにで良いのです其れが、圭の道筋なので南無と叡(したが)へ、ぎぎぎといまは思つて、自分の心の中を覗いてから真白な刃で囲(カコ)を砕きます。弘う云うのであのう、酷い誤診を確認して貰えないですか、圭、お前が憎しいのですワ。守り守られ云うても、本当はもつと―複雑で有る為尖つた感情も、早合点も、其うゆう「水」も迫(よ)に要るが、お前は綺麗に為つて其れで諸に離されて終つて、空気も無し、矢張だらりと垂(だ)れ冷まして消える。お前にちなみに、日蓮宗は宗派が分かれたから“割れる”て云う謂れが有るのですが、其んなんは仏と星空に譬えばずつと前からの宿縁で、夙に今生と云う物が因で有る、既に己の過まりは親しき。現行が果つて此処に罪を滅ぼす。幾許恋して死ねば叶つて人も去ぬ、けれど其の陋(ろう)の苦しは天地に弗を女眉(バビロン)と云うで、赤(あ)んなんは嫌。

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