揶白 (KF)

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揶白 (KF)

絵画

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    Works 46
  • 身丈の是非

    あるものの大事さ。何かにおける、優位さというよりは、物事を解くだけの優しさなのだろう。

     

    幽霊を通して、私の記憶の中に本当に劣ったものを私が辿って、

     

     

    このように出来る。と、いう現在がある。その場合、如何にたたかったのかは自分なのだ。

     

    自分の優しさを認めて居なければ、

     

     

    リアルが重いものだから得意がられるのであって、あらゆる厳しさなどよりも、

     

     

    簡単に幽霊が劣ってるというだけのことだ。

     

     

    その点だけでは、身丈の是非にたいする反骨として、「色」を唱えた。

     

     

     

    部落にたいしても、弾左衛門という人が仕切って、この人は悪かったらしいが、関東の方であるので何らか丸く治まっていたのだろう。穢多非人ではあっても(人的にそんなことを思うんだろう)その子息など、屋敷のように広く固まって、動物の皮剥ぎなど、人の嫌な仕事をして生活をしていた。動物や、人なんかの死にたいして触るのだから、刀がどうばかりでなく、そういうそれなりの長所や精霊があるだろう。城は幸せかもしれないが、社会的にはやさしかったかもしれないが多くの武士も辛いし、お百姓はお百姓、人間ただで生きてないから色々わかってくる。辛いことばかりだから断念した恋もあるというのが現実にある、のが本当のことかもしれない。

     

     

    外側からの誤解について。

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  • 視覚の優位性

    目であるよりも、独立した「私」の客観性から自我について振り返る。マイ・ベストソングが、「私とは何か?」の為に固く口を閉ざしてしまった。それがかえって思想にとってのノイズだからだ。なぜ歌のカテゴリかというと、思想哲学が、嬉しいものだから私はこう思う。


    神との対話

     

    結局人は、私の見られたくないものを見たし、

    心を良く傷ませることは、立ち上がることでしかないのだけど、

    自己の欠点にたいして

    認識する私はもう外側にいて、

    認識にたいしてはモラルが必ずいるんだから、その人格は示唆されているものである。

     

    自己弁解による、ブルジョア的な被害者いしきには何の傷も無いし、もともと意識をもたなかった

     

     

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  • 申すこと

    宇宙について、よく知りたい。

     

     

     

     

    人について「良く」知りたい。

     

     

     

     

     

    万が一の、何かの滞りと滞りに対する心配を伺って頂けますか?

     

     

     

     

     

    例えば死んでもブログを続けますので、断り等を習うことがしたいです。

     

     

     

    言葉が出ませんが、いつも有難うございます。

     

     

    本当にありがとうございます。

     

     

     

     

    南無、とおもってますね。天にまかせるという意味です。

     

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  • 恋と名前

    結局、恋愛をするのだろうが、

     

     

     

    人どまりなんだから、美なんて絶対にそうだから、

     

     

     

    人間でなくなるからみにくいのであって、

     

     

     

     

     

     

    人、人間でないのだから、神でもなくなる。

     

     

     

     

    万能を失っているから、学習が ある。

     

     

    「帰ってくれ」

    「一緒にするの?」

     

    火は揺れているだけのもの。

     

     

     

     

    恋愛はこの「情け」、優しい感情を、

     

     

     

    理性的に使ったりはしないヨ。

     

     

     

     

     

     

    誰でも有る可能性にたいして長くじりじり近づく。

     

     

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  • 先生のようになりたい、教える立場になれるかわからない


    憎しんでも、認めてあげること。

    いいことなら、何をしていてもいいが、

     

     

    問題は、何が善かってところだ。


    先生には、頬を故意に痛くつねられたり、しても、




    こちらは好きだから



    あれは何の思いだったのかなと、




    私は今も、考え、知ったり、




    感じ入ったりすることが、大人になっても、楽しいことなんだ。




    私が憎たらしかったのがきっかけであるが、




    これは感情や、人間の心について、




    そのときの、その時代、それしかない「言葉」によって、



    おおきく、おおきく学んでいる。






    遠くと知っていた人間に、しっかり近づいた自分に満足する。



    自分を失ったら次に悪いから、




    神に私がなんかの時は怒ってくださいねと願って、びくびくしながらいたらいいんだ、




    先生にも、怒ってください、



    と言って、



    子供はびくびくしてたらいいんだ。








    親として、みんな子供に任せて、それを見つめているだけで



    楽しいものだ。


    それが構えで、



    高いことを知るとは、高いことほど人がわかって、



    風にも雨にも打たれることの出来る人になって欲しい、と、



    未来が、「子供たち」なんだ、と言うのは、



    結局一人の子供が、皆といたいと言うからだ





    「私」が胸の影に手をあててみても、大人が、皆と思うのだ。

     

     

     

     

    表面を見る先生も、

     

     

     

    自分が自分なのだから、自分がそんな環境に揉まれていることだ。

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