揶白 (KF)

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揶白 (KF)

絵画

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    Works 46
  • 多くは望まない

    あなたたちを見てると何が思いやりかわからなくなる。

     

    受け取らなくて良い現実はもっとちゃんと内心にしても断る事。親を信じ、自分を思いやる事。

     

    私は括弧している、狭くって客観的なことが、既に主観である私たちだが、一歩外にでるとわからない。

     

    もし闘って何かを決めてきたのなら、

     

    議するのが良いかさえ考える、こちらが主格の限り良いのだろう。

     

    何事も言い切らない、「かも知れないよ。」と云う野暮さが、既に「チョイ悪」などキメているのなら、

     

    何も云う事が 無い。

     

    横から自分とこで話してくれて良い事で。

     

     

    詳細はあとで、これからラジオを聴きます。

     

     

     

     

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  • 僧侶と家でチーズケーキをフライパンで焼きました。

    飛行機が、私の家のベランダで赤と白に点滅し正面を通った。

     

    それが二台。

     

    8月。

     

     

     

     

     

     

    大澤氏に過去「エプソン」と呼ばれ泣いた事がある、

     

     

     

    久しぶりです。生意気になりました。
    ひとも、疑ってほしくないのだと学びました。
    怖れる気持ちや、嬉しいのと、たたかってます。
    また怖い僧侶がおりました。ひっつくと勉強させて頂けるようです。
    自己から何かを始めたことがないので頑張ってみようとおもいます。自己、影、私の輪郭線。応援してね。

     

    レジで注文を受けると2、30分で、出てくる
    「わたし」というインクジェッタプリンターのプリントである。
    わたしの千代紙のスクリーンには、慎ましいあなたの顔が映り、
    山の胸の雲がひかるようだった。
    凄然とした青ねずみの夜、どんな飛行機だが知れないが、星っぽく作りたかった様だ。
    そう聞くと鼻高履ロマンテックである。
    これから、何でもやって行こう。
    貝の数え歌、書物、何てない友達との何てない会話、豊かな時間というのをながらく失って、
    記号は亦
    詩のように穏やか。それらの隙間に微粒子が見える。

     

    日に一枚。帰宅すると印刷しよう、ときめてプリンタを回しはじめる。
    ミッキーの電話器がさまざまな加工をほどこされて4枚刷り上がり、
    次にガラスに閉じた金魚のアクセを透明度に変化をつけ4枚プリントをする。

    印刷が私に与える影響とはどのようなものか量りしれない。
    先程日に1枚をプリントすると言ったばかりなのに、おおきくこえて15枚ほど過多に刷ってしまい、そうするちに朝の4時になってしまう。大変な発見をしてしまった。無茶苦茶楽しいのである。

    「技術とは、たんに外的なたすけになるだけのものではなく、意識を内的に変化させる」 W-J.オング (『声の文化と文字の文化』)

    印刷も書くことも、ことばも、もともとは声の文化によって本質的には聴覚の音素だったそうだ。つまり、演説や対話が最も人々に理解され、説得するものであった。これとはうってかわって、活版の印刷がはじまった約1600年から現在まで、技術となじみはじめて生活に深く内面化した生活の我々の意識とは、音から視覚空間へとおおきな革変のなかに未だいる。こうした卓見をまとめたオングは印刷が意識に及ぼした影響のについても紹介してある。

    「印刷はプロテスタントの宗教革命を実現し、カトリックの宗教的慣行を方向転換させた」「近代資本主義の発展」「全地球の探査を実現」「家庭生活と政治を変えた」「かつてなかったほどの知識を広める」 などなど。

    さて後読感としては「宗教的慣行を方向転換させる」インクジェットのプリンタが
    我が家にあることを実感するばかりだ。

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  • 光には目がない

    「ケータイ依存」など固定観念を持ってる間に出遅れる。

    熱中すると、心配だがことば勝負であるし、でも

    自分よりは大抵の人は、判断がついて、自己管理が出来てると思う。

     


    その人が何をやっているのか?、。これが重要で、

    どんな感じの気持で、その人が何をやっているのか?

    自分はどうなのか?

    を社会では毎日感じていた。

     


    見る力を付ける、子育てのようなことをにわかに私はして

    まだなにも教えてないが、

    「好きな人」っていうのは、もっと抵抗の持ってる人、

    好感とは違う。自分が抵抗の持ってる人に近くて、

    人生の中で、あらゆる事の反省をしていたら、会えるんだと思う。

    悔いてるうちは解決してないんだと思う。

    そういう未消化か、かなり多い。

    ペンと紙を持つのは苦しいが、苦しいほど

    甲斐があること。

     


    要は好きな人に近づけたら良いんやんな、

    しかし、落ちたら駄目っていうか人それぞれやけど、

    好きな人 っていう光、言葉の光でもあるが、

    言うけど蛾は、光に向かってな、、

    焦げてるだけやろ、その、光を躱(かわ)すってやり方があってな、

    好きな人って外側の光やん、自分、内の光に気づけば

    それが影をも含むというか、影に耐えるというか、

    蝶は、光と均等をはかって飛ぶらしいわ。

    つまり自分が抵抗をするものに、抵抗するという緊張感を抱いたまま、

    合わせる事が出来る大きな胆力やねん。

    すると好きな人って自分の内側におる事に気付ける次元の自分、っていうのはもはや光やねん。

     


    テレビから、画面から離れて、

    歩くと足の裏のツボが刺激され、脳が良く働くらしい。

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  • 明るさを保つ

    パルックがダサい、と海外に云われてることを知っている。

     

    ユーフォーみたい、だと。

     

     

    哀しいことが一杯あったけど、

     

    詩的な態度と向上心で、パルック程度の長持ちをする。

     

     

    感謝   「和風」にしている。

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  • ひろこちゃんとおおさわさん

    高揚やストレスを消化して述べる日々研磨のこのブログ日記です。

    考えを変えると今後が絶対上手くいかないし、

    ブログやサイトを好きに親しんでくれてかまいません。

    忙しくて先にこれを言えなかったけど、まぁ、

    今言えて、△であってもマシ。

     


    今日はある過去について考えていました。


    夜が明けたらさっそく

    ひろこちゃんと、大澤さんと、話合って、

    詩、文章ではあるが書いています。

    多分読んでくれていると思う。

    どういう状況か知れないが、最後に向かった大澤さんの個展で、なにげに会話した余韻や、

    その時に話し切れなかった強い悔いを、いつも思い出すんだと思う。

    これで良い、と思う日もあるが、これで良いと言って前に進むような

    恋愛は実際していないし、ただ「思い出」になると、記憶の中で美化される。

    何年も連絡が繋がることないし、

    人間のプライドがどうっていったて今も過去も変わらないから

    これまでを持つしかなくて、プライドよりも善意というけどまたそれは違う。なら違うと言って

    捨てるべきやと思う。転化されたらいややし。

    かといって洗う服を洗濯するのが哲理で、

    そういう胸懐の中で、一筋だけあるのが詩

    で、心の無有も在り、精神を芯から守っていく。と思うんだけど、もはや「それ」は詩ではない、過去を過去にしてないから詩ではないという考えもあって

    「なんでそこに価値を置くの? って言われても、話の前提が根本的に違うからその質問は省く。根本的にとかことばが正しくないけどそれを話す距離が無いんだから

    それでも関わる何かがあるなら最初に諦めていなければいけない。じゃなきゃ人間としておわってる。」

    詩である場合は、昔から近所に住んでいて、大学で出会って、少し好きになったが友達で、趣味も近く、ネットでもはち合わせをするが、気まずく覆面を被って、詩なのかわからない文章を今も書いているが、一連が詩的で、稀有だし、

    これで希望を持てたら良いんだけど、

    「公園」で遊んで泥だらけになって、洗濯したら、シャツは白いけど、破けてしまった。

    ないことはないと言わなくてはいけなくて、最近何も読んでない。

    けど、「昔から近所に住んでいて、大学で出会って、少し好きになったが友達で、趣味も近く、」

    こういう関係だから、繰り返されざるを得ないもので、だけど繰り返すというよりは

    ただの感情で、人情、、人情以下の事をされた、意思がもしないにしても酷いことが二者間、三者間に起きた。

    「昔から近所に住んでいて、大学で出会って、少し好きになったが友達で、趣味も近く、」

    一人では片付けられない。

     

     

     

     

     

     

    いや、腐敗した。あなたがユウを少し信じれば良かった。


    君は少なくとも我慢して、頑張っていて素敵だったから、話しかけたんだよ。
    気持ちが暗くても、それなりに生きていける方法や、惹かれること、嫌っていること、心って本当に複雑で、それが同時にあって、人に見えない摩擦があって、傷も詩もうるさくて、だから私も何か書いた。

    別に「(あいつ)のいない間」でもなかったし。鈍感を怖れたけれど、その時はその時。

    何らか哲学を見出したかった、その筈だった。「学習」がおそってくるながらでも、私を学校に行かせる程、ならば、今まで続く事だった。


    絵のえがきかた何で同じアトリエにいれば似通って、確かに自分たちも一般的にその中で切磋琢磨する、と確かに思っていた。自己の悪いところは補い合う…。でもそんな美しいことを叶える為に、障害と長い努力がそれ以前にその前に存在する、何て云うのを、自分は平凡を決め込んで居たから考えられなかった。

    ひろこちゃん、あなたは、ある時から「私の夢」を見てるね。
    ある時、あなたのこい、「ゆうの私、私のゆう」と云う絵画を見てすっ倒れて、
    それでも私について、愛について、を思っていた。
    堪えている、堪えて表現していることも見てた。
    子が本当に生んだように、
    けど、心に対して心の距離感って最も基礎が出来てなくて、いや、死んではないよ、「失敗」した。

    以下省略

     

     

     

     

     

    こういうふうに、持ちつ持たれつ、人的にうやむやに出来た所はそうして、心配して、養ったり、応援し合ったりしている。

    洗わなくても良いものって確かにあって、その分別はついてると思う。

    何を「表現」として作る事、描く事、書く事を希望にするかモラルが、互いに立っていたんだけど、倒した事もあるけど、

    何を書いていても、内心であっても、かなり難しいし読み手は忍耐と冷静が要るけど、人のアート性はほっといて欲しい。

     

     

     

    身体に畏怖がある。

     

    同じくらい思ってたり考えているのであればつり合うのだと思う。

    だから、出来るだけ目に見える肉厚や重さとして安心をここに書く気持ち。

     

    以上です。

     

     

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