揶白 (KF)

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揶白 (KF)

絵画

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    Works 46
  • 戦争が起きる時


    「俺は何もかもかもわかる」と思う気になるのが、大学で学問をし出した20代の頃であるが、働いている年配や老人は、何もを諦めたとして、大切なものを忘却したとして、何かボケて見えるのがその時ある。  
    老人と付き合えば、棘のある言葉の躱し方や、「俺」とした会話を考えている態度など、年配を見ていると舐めれないと知る。  そこに人間的なものがあるからだ。
     
     
     
     
     
    親子の憤りももともとは魂が敵同士で有り、揉み合う中で、親は親で、子を家から追い出すように遺伝子的に思い、海へ出る。  
    会社でも、ショップでも、人を疎ましがらず、水にかかると思い、手足を動かしてもっと泳げるように、  
     
    海へ行く。  
    そして、自分の中に弾力をつける。  
     
     
     
     
     
    「しね、キモい、バカ」人を罵倒するのに叶った言葉を、使うとすれば、本当に傷ついた時に決死になり口にすればいい。  
     
    上品でもないのに繊細そうに、しょんぼりして、素直になれないし、粗い目の言葉にはすっぽりハマる。書物に埋もれて死んでしまう。  
     
     
    子供が大学生になったとき、必ず戦争を考える、必死に生きたいし、虚無を抱え月に行きたいとさえ云うだろう。  
    「お前はリアルを知らない」等、云って私は教える人になりたい。  
    リアルとは、戦争でも刹那に生きる事でも何でもなく、生活とは、その肉体とは、綺麗になりたい、心でも身なりでも、そういう自分に対峙し、衣食住を継続する。  それらしかないが、「愛」がそこまで高いものではないから忘れやすい。
    恐怖になりたい時だってあるし、  悲しみたいのは、憧れるから。
    賢くなりたいのに、光りたいのに、やり方がわからない。  
     老人こそが、我々の「未知」だったし、その道だった。
     
    問題は、西洋文化、戦争ですっかり抜けてしまったのだが、  
     
    聖お兄さんを見ててもわかるように  
     
    「天使」と「仏」では高度が違うが、まるまる神国だった古代から聖徳太子の仏教以来、今は、天使になりたい思想が加えられ、まろやかになった。しかし、時代は忙しくテンパって、まず祖母の代は苦労を教えなくなり、  
    現代すっかり優しくなってしまった。  
    甘すぎる気がする。  
    リアルとは何か?私達も子から学びたい。  
     
    その人が戦争に憧れ、それがが彼のたたかいだとして、たたかいに胸が熱くなったりすることもあるにのは実際だ。だけど、そんな高いもんを望まれても、親の方に知的権力や美貌がないと、ついてきてくれない。  子供は、それ程馬鹿だ。
     
     
     
     
     
    夢も希望も詩の理解も叶える。その為だけに、苦を苦としたり、哀しい時には泣き、嬉しい時に笑う。  
    八正道が深まるものだとしらなかったし、やってみたことがない人も多い。  
    味覚や五感などを、深めて、人間が人間になると、何かと良いこともある。良い客観性を持たなければ、自信なんてすぐ崩れる。  
     
     
    思想の模倣に留まって、「ロック」出来ているのかが心配だ。  
    「エミネム」や「ヒップホップ」「レゲエ」など、良いものを私たちは、聴いてきたが、  
    何度つきつけられても良いのは精神である。  
    エミネムの素晴らしさをどう祖父母や親と共有できるか?   
     
    あるべき墓に入り、  
    あるべき星になり、  
     
     
     
     
     
    お早うございます。華村です。  
     
    今日は趣味を、語ります。  
    蝉が鳴いていますね(*´∀`*)  
    雨も、つうつう降って、朝四時の空は紺色で、とても神秘的です。  
    洗濯機を回して、これを書いて居ます。  
     
     
     
    華村は釈迦や仏陀、佛経が好きで、日頃読んで居ます。  
    昨日一人で、奈良に行きました。奈良といえば平城京。町は古いけど整えられて居て、広く、物も人も何でも大きい。何でも大きいです。大きな殿の広場で、感じれるのすぐそばの弥生時代の息吹。広大な草原、どこか寂しげで、落ち着いた。春日大社も、大きい。  
    何だかわくわくしますね。  
    茶道も長けて居てどっか行くと、出迎えてくれる。江戸の新しさから、東京は今も喧嘩っ早いが、東京の小気味の良いな言葉と喧嘩で空気を清めようとする。不良は不良で、どことなく落ち着いて居る。文化と云えばアート。桜。そんな何でも新しい町の特徴から、対極された、奈良は古いその故に風紀が良いし、  
     
     
    大阪もまた余り知られて居ないが、難波京としては奈良より、東京より、日本では最も古い。美意識が高く何でも許していくような態度を続けると、表面的にアホの様になる。その経験の間、よく辛抱をするので、「上方」の名は結構最近で、江戸時代以降。いつの間にか人よりも上手(うわて)になったから、  
    上方文化云うけれど、着物や清酒、うどん、近松門左衛門、そんな道に対しておおきな茶の見物が多い。それは馬鹿や。  
     
    その人がやっている事と同じ事を目指す事。  
    勉学、心的な労働。  
    太陽は有るものやで。嫉妬で人間は死んでしまう。辛さとか嫉妬に自分が有って、そこから感じ取らなければ、天はない。  
    「イマジン」と云う歌のように、  
    人間に天国がないのは、自分に地を定める力かないから。全然空なんて見上げていませんね。だから地球もないような気がして来る。恐怖になって、戦争をしなきゃいけない、と言う考えが。日本にさえ出てくる。核シェルターが何で日本にあって、しかも何でその全てが破棄され今空が青々としたかとたかというと、指図したのはどこかは知らないが、一番試したい国だったから。柱やってん。  
    この一連がコロナやってん。  
    安倍さんも菅さんも税金かなんかでわざと銀座のクラブにいった政治家のおじいさんも、「君を守りたい」って云うてん。  
     
     
     
     
    如来や菩薩の美しさ。  
     
    釈迦と仏陀は、それぞれが有る様だ。  
    釈迦はただの精神の麗人で、人間の躾をする偉い佛、それぞれの悟りが、空にいつまでも曼荼羅を描いて居る。  
     
     
    釈迦(花)の足を必死に昇って行った仏陀とは、美貌として、父や母に子は叶わぬと云うこと、子はその辛さ。辛さまで来て愛に為って、初めて仏境涯を得る。  
       
    堕落的に生きるという事の反対に、社会的であると云うこと。  
    幸せは堕落的な人のものではないが、厳しい瞑想などを修行をすることで、落ちていてもそれなりの「相」が出来る。光と影とのバランスが出来るのだ。  
     
    人のなりふりで自分を正した結果、嫉妬も何も失ったらもうサイヤク。そう云うの、白比べって云って、「皆様」って云うねん。もっと鮮やかに!  
     
     
     
     





     

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  • 私の義憤


    何でも、悩む時夢か現実か、ではなく、夢とか夢じゃない、ではなく、
    虚構は、想像しているのか妄想しているのか。

    フランス映画や漫画など妄想が規格を持って「相」となったりもする。
    妄想は、自己内の空想や、相手に近付く前の非現実や。
    「あなた」の輪郭を描くために、
    このもやもやを消去して行くには、対面する。対面とは、「自己自身である心臓と、精神が一つになる状態」つまり、「質問」をちゃんと出来、自分で消費出来る人。
    文筆なども、ここで伸びて行く。

    虚構は、このように相手に近付きゆっくりリアルな感触の線を紙にくり抜いて行く。

    シーレなどを憧れたのは、この理由だ。



    義憤している。

    人と比べるなと云うが、此の時と云う此の時、他と比較を為(す)る。
    指を数えて、
    霊性の広がりを感じる。性は、自分よりも更なる逢瀬だ。

    星の生まれる途中、芸術は、
    苦悩からとうに放たれて居る。







     

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