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2022/01/05
大阪は、茨木市に住んで居ます。
北部にあり、山もあります。気候と性格はやはり密にあり、それが判ると、例えその冷たい感覚でも、人間として嫌いってわけじゃない、
ひんやりとしてるから、たんたんと一人で勉強できるとか、
「ちょっとつまんないけどな。」この気持が、
まま、ノーベル賞を獲った川端康成の名所。
日本三大文学として、
川端康成
三島由紀夫
谷崎潤一郎
大阪はご存知の通り、オタク気質で、一つの事物には激しく熱を出して、討究する人が多い。
昨今しられないが、文学にたいしてはそうで、かつて多くのファンがいた。
土地の城、大阪城の貯蔵庫には、又、万冊の書物があったが焼けた、と云う記述をどこかで読んだのだ。
学問は、
呑気に嬉々と書いた持論を、それは違う、これはああ、と詩にたいする自意識の、何にして超えたり耐えたりする意志も、努力も無いのに、自分を差し込んで、あれ悪い、あれが嫌、
何かさわったら「顔だせ。」。自己の払拭について強いられることが多くある。むしろ何の詩性も、詩人でもない、単なるつるぎを光らせた優しい騎士への、ひいきや偏り、うたたね、に疑問を持つこともクエスチョンも全然ないのに、「詩」にたいして、詩学的な知しきと、サビシサや、動植物の争い(へんな)、そんなモノを、持ちかけて来る。
私は思う、「こえ」は客観的だ。敢えてこの言い方をする。
そして、持論は対話をもとめられ、嫌われるままに追い出される繊細なもの。
哀しくなったかれが、
「何も教えてやらん!」
「もう本、読まん!」
こうして、な、なんと、アホ になったのが大阪である。そうして、
捨てられた「芸術」の議論を、当然諦めることは出来ず、暗転して今度は全力で体現したかのよう、「お笑い」。この詩は、「云う」こと、なのであるから、万々歳。というよりは、ただ頑張った。
まま、
嘘は、かかんが、然し、嘘を、かきまする。
尚、大阪として文句は多くあるが、跳ね返したり意をバウンドさしたりしても、さしあたり悪いことは無いから、何かを云い続けることの、かち、余裕、あませ、としての細部は予め成功させて求めて居る。
無論、いつまでも笑える。
基準
安くて良いもの、
仮糸として、捨てることの可能なものか、
しんに対して光らせ、残すものにするのか、
題の迷いとするところを、置いて考えて居ます。
自分の詩には、機能性があり、それで割ってなんとか悩みなく書いて居ますが、
もし、生真面目な者が居るとしたら、私という個人にはあまり価値を置かずに、引いて、好きなものを書いて欲しいという、強い願いがあります。
ですから、時折わたしの文に()としてよみがなを付けるのは、樋口一葉の現代文のみまねであります。
こう思っていることにたいして、何でもその人が生きているという唯一にたいしては、「私」も同じであり、ということが、「詩」のほかならない為、それ故、どちらかが失せる、と云うことなどは、壇としてあり得ない、あってなるものか、なのですから、依って、この理由のみにその威厳、きびしさと、価値的な高度があるのですよ。
以上、評判、あ、違った。表現としての芸術のたかさ、でした。
三島由紀夫 一説にはむつかしい熟語の連打だと言ってるが、
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