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2020/10/09
無について読書して居る。
カント…「無の哲学Ⅱ」 福岡正信
俗である
時空が若し、純粋な思考の諸形式
「私」の範疇であるならば
時空を越える、とは余りあんまり夢のない事、
一見して俗(ただもの)を超えていく
俗とは、私に無を教えて呉れる(手におさまりきらない事から)
世の中は、私にマイカラーを教えて呉れ、(色とりどりなことから)
笑顔は、その色がどんな煌めきかを教えて呉れ、
浮く笹(うきよ)は、私に明日を諭して呉る。
ハイデガー「存在と時間」…実存とは 現存在は、みずからの存在そのものにたいしてさまざまな態度をとることができ、またつねに何らかの態度をとっているものである。わたしたちはこうした存在そのもの(ダスイェーニゲ)を、実存とよぶことにしよう。現存在という存在者の本質は、それが事象として、「何」を含んでいるかを示すことによっては規定できない。この存在者の本質は、みずからの存在を、みずからの存在として、存在しなければならないということにある。だからこそ、この存在者のよびなとして純粋に表現する言葉である現存在という語が、選ばれたのである。
「実存は本質に先立つ」超越論的な真理、主題、一つの類のようなもの、普遍性、
それでも本質を諦めたくない。
「私」が時空の中に居る、と云う事がもっとも豊かである。時空を、其れをどの範疇で言うのかは、国々や思いによって違うだろう。
我々、「私」の盲点として、
知識は欲しがるくせに
中国には 今だ「経験させてもらうには値しない」
させてもらう、「私」はこの角度からささっと入り込まなければ漢詩を知り得ないのだ。
アリストテレス…「存在は多様な意味で語られる」
ハイデガー、カント…わたしたちの周囲を見回してみても、大地があり、樹木があり、小鳥たちがいる。これは自然の事物であり、生物である。さらに家があり、机があり、書物がある。これらは日常生活の道具である。これらの事物や道具がわたしを囲み、わたしたちの日常生活を作り出している。
デカルト…「レス・コギダンス シウェ・メンス・シウェ・アニムス 思惟するもの、すなわち精神、すなわち心
惟(おもう、これ、ただ)」
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