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2020/10/29
真田幸村と猿飛佐助です。
日本のデニムブランドのプリントだとか。
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2020/10/29
クロッキーを起こすためだけの絵画です。
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2020/10/29
愛する大澤氏の描いた無表情キャラを「カンカンとした街並み」を描きたくて使っている。
私も昔植木鉢の絵を大澤氏に差しあげたことがある。
カード交換みたい。
キャラクター、工事現場、自転車、老舗、こういった街明かりを見つけてスナップに収める。それを並べると何となく街の記憶が浮かんでくる。それを楽しんで居る。
話に立ち止まっても良いが、自分のしたいことをみつけたら、これがいくら苦しく執着させても、この中で手に取らなければ、過ぎた時間に後悔する。嫌を振り切って、自分こそ前進、前に進まなくては。その気持ちのある人の観覧を希望する。そうでない人はもとの道に戻りますようにと、祈ってやまない。
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2020/10/29
メタ意識。(意識の中の)虚構の意識。
それら時間を含んだイラストと、あたかも動いていてひとつの映画のように見えるゴッホのヒマワリやカフェ、呑み屋とは、大差がなく、なぜかと云うとそれらは描き手もしくは語り手が実際に能動しているからだ。此の目は未来(こどもたち、と云って思い我々は一旦へりくだる必要がある。)へまなざしを通して、だから啓示するのだ。
真っしろなキャンパスを切っていく、切り詰めた扉にいちいち息を止めて繊細に恋をする。綺麗だ、などに含まれない光を描きたい。
昨今書くのはモダニズムへの訓練です。
何か「こうなってしまった」もの。勝手に散らかるのを、「私」を置いて人が動いて行く事をそれをなるべくどんなにか許していく事の全体的な鍛錬。ただ意図するのは、わざとをわざとらしく見せないキザな態度です。
世の中では、良いこと悪いこととか二元性の美しさの発見を楽しんできた。現代を生きてる記録でもある。それは単なるデータとは異なる。データをバラエティとして含めた光の雫である。
仏界とは、価値の世界であり、
あの涙は日蓮が使える女を使い南無妙法蓮華経のオリジナルの価値によって流したのだから高尚だった。
しかしわたしたちはいったん日が空けて外にでると、事物が奥行きを加えたように続いてあるのを見て、世界を見渡す事が出来るのだった。
「物語」のページを増やして行く事になっている。三次元世界とは心が現れた境に引かれる新たな線である。新しいテンションの事かも知れない。さあ新たなキャラを交え、自分を衣替えするところである。
アングラ音楽でもお馴染みだが「オリジナル」についてです、これは任意で作品にはんを押すもので、それを何かと言うと、良いものです、と云う認定されたしるしである。
私は何事から親子から、言葉の意味の通達とその模倣の瞳から涙が溢れるように始まって居ると感じていて、
親子は師弟関係でもあり、性欲については友達もそうだ。互いに学んで真似ている方が悩まずに理性的に居る。
絵で、同じものを同じように描いても、その人と云う筆跡は残るし、私はそれを卵と思う。
こういうときは古典に頼る。
「風姿花伝」、お能である。能では、ひたすら真似をやっていくのだが、十代はまだ芽であり、二十代が蕾、三十代で顔が出てきて、花になるのは四十代からだそう。
するとだから、オリジナルと呼べるのは、どんがらがしゃりと散らかした自分の顔を研ぎ澄ました時である、
私は茶のように濁りを研いでいるので、私の絵を見ても綺麗だとか云われる事はないが、自分の育った乳であるような地、徒歩で足の裏から頭に刻まれた街並み、そこから生まれた夢、大腸菌、それを描いたらどうなるだろう?見たこともないだろう。という気持ちが強く、そういう言うたら誰も居ない愛を表現したいと最近思ってる。「静寂の有る歌」という意味に於いて中国文化にかなり影響を受けている、詩が非常に好きなのである。何かに強く惹かれても、例えば青や天に君が惹かれたとして、向こうも好いてくれるとは限らない。けど好きな場合どうしたらいいだろう?
(物としての)美しさが、人によってまったくちがう。rocoがそう言ってた。
私は偉いことに美は醜悪美であると思うところの孤独である。こういう「ジブン」から人と触れ合いたい。
油絵は非常に色が豊かだ。
隣合う色が響きあうとたちまち光る。発光するのだ。塗り重ねても光る。
大澤氏はこれを行っていたが、私は出来ない。ただの平面画だとたんかをきっているし、私に有るもの、鋭い闇なら描ける。
絵画やアートばかりでなくファッションさえ、生真面目なものだと云う。
ファッション、文学、詩は自分を解決してくれる。さらに音楽がそれを破壊して行く。それに於いては上記の三つと音楽の行為はそれぞれアートと云うのだろう。いずれにせよ真新しい価値観でメタ意識とともに楽しく噛み砕いていく。
ちなみに俗に絵心がなくとも、絵が好きであれば才能はある。ただひやりと笑われる時間は長いのだ。
私は画家を夢見て居た。先生の、絵は描けることよりも粘りが大事。この言葉が今の私を生かして居る。
もし自死していた時、何らかの色彩を守ったに違いない。、波のゆるり広がっていく私たちの滑らかな倦怠が。
ただ、其の高貴な色の彩色が、前がどこか、未来さえ無知であるしかなかった現代の「わたし」にゲンダイに落ちている「わたし」に相応しかったのか、甚だ不明である。数多、苦(ニガ)い神秘のマイカラーが益々透き通るばかりである。
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