揶白 (KF)

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揶白 (KF)

絵画

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    Works 46
  • 平和

     


    底抜けに明るい気持とは、

    私の風にいつも、重い石があって、

    重石は、わざと置いていたのではなく、

    ただ置かれていたことです。

    それらは正しかったのですが、

    間違っていた理由が「存在しないもの」、として最近思い出されて、

    ですから誰も語れず、きまずさをうたいます。



    考えてみれば、「霊、人間の霊」とも異なった、ゆうれいの存在が私には新しく、新輝として、

    「悪さをする」ところが、人と違いどんなものだろうと思う視点で。

    知れば、不幸が原因でもないからマリアよりもずっと不思議な卑しさ。

    醜悪、という言葉は美しい。このことを日ごろ考えて居て、

    自分のテーマでもあるから、整理して幽霊などに割り当てれず、何か重なってしまう想像。







    同時に真逆である大蛇や、精霊の美しさをみるので、

    仏のきっかけが、何であったのかは、

    私は、国法の字のすばらしさに愛着をもち、

    要は「全員が文化的に生きなければ。全員が平和を求めなければ。」


    だから、「私」は

    いままでのことを、起こり得た

    私の知ってる災いとして

    軽く、美しさと呼びます。












    飲まれないで生きてるのだから、儚さがないというか、

    散らない不気味な花の様にも思う。政治は精神にたいして無知だから占いをおこなう。


    遊びが在るのに知らないと、質を云われると、

    それが高さではなく、崇高なものではなく、自分の生活におく上下の知識なら

    「顔」も単なる使い捨てのものとなるだろう。

    物静かに、捨て身の覚悟を当然として、世に継ぐような

    室町の次は、幕府をちゃんとまたいで戦国時代。戦いと云っても、内面は「計画」や「設計」なのだ。

    かつて一度もなかった三百年の平和(えどじだい)を作ってしまった。

     

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  • アニメについて

    2021/12/10

    メモ

    もともと霊媒とは「苦しみ」が、人生のもっともテーマなのだ。

     

    超人、仙道、そう云うことを目指すから、人間とは違う。

     

    僧侶にはなりたくない(至って男性的で合わない)から、気品というものが丸々ない。

     

    人間がその修行をみたら、ショックを受ける事であるが、

     

    「あの人」よばわりで構わない。失礼。

     

     

     

    最近、如来や、菩薩、太秦、こう云った言葉が、自分で探して見つけていくものだと知った。

     

    ヒップホップの曲でたまに見かける。意味を云って述べていいか分からないが、

     

    僧だからと云って仏に興味が有るとは限らず、むしろ強い修行者とは、「龍」など精霊と結びつく。

     

    仏陀は、「悟る」と書く。

     

    一方、釈迦無二仏を「どのように呼んでもいい」らしい。

     

    守ってもらうなら、お仏壇に手を合わせる。理論はないが、精霊としての決まりがあったのだ。

     

     

    「こうして仏陀は如来を許し、世間(よのなか)から追い出した」

    エメラルドさんと云う詩人の方がいるが、
    一行一行が人々のものであり、一行一行は離れている。感じる行の言葉を軸に、自分の連想する事や思いを、応答するように綴る。とそれがロープになり、連絡網になり、詩が筏(いかだ)のようになり、川なのか海なのか、旅立てるように設計されてる。
    息をするように漕いで行く。

    「行路難、行路難。」

    何事も最初だけはくらく、笑われている時間は長いだろう。
    稼ぎ手(武力)と作り手(粘土等)は普段別だが、役割を互いに負担をするくらいの関わりとして今を感じている。

     

     

     

    詩を読書してる時、その人は詩人なのである。

     

     

     

     

     

    「アート」

    アートはそれが思想であり顔がない。ブランド性がない。そう云ったものがない。


    梅ラボさんの作品とは、御本人の言葉である、これは死体らしい。
    死体とは何か?
    では、生物とは何か?

    モダン的な、即ち理想を一回作って、それをみんなで壊して分割し、作って行こうと云う、既存のものを突破するデザイン、詩についての「死」である。

    一コンピューターの能力が今まで見たこともないようなものをつくる。

    「パソコン」が制作の現場になった。
    パソコン上の空間が制作の現場になった。
    こういった無形のものから、プリント、即ち現在をする、そうして事物になる前の段階でパソコンで作っちゃおう、というわけである。絵に起こす為に、(「絵画」とは、単純に絵になる、とか、詩的だとか、神ががるとかそういう意味だと思ってる。)レイヤーを敷く、メディウムの事にレイヤーと言っているが、半紙を重ねて、平面的に働きかける。光を表現するには奥行きのほかに透明度を身をもって高める。
    アニメーションのキャラなどの顔は、あれは人間の顔から色々省略した線が見られる。髪はともかく、造形するとかいったものではなく、わたしたちの自然体が美しいと云えよう。)自分の内で塗り重ねたその圧力が光る西洋の油絵とは異なりつつ、「私が私になる」といった意味で他者から同意されるだろう。
    私の地元は大阪であるが、思想的に力まない事が善しとされ、観る人を見返す、「こうこうこういうことをする」「それをする」んじゃなくてあれも出来てこれも出来ると云うのが柱(はしら)である。
    それを裏切っているようで、非常に負い目がある。
    描いた少女を切って分裂させて、組み立てる。「パソコン」の怖ろしさを臨む。それがキメラである。キメラにせよ、学問は、あらゆる脅威から前向きに道徳へと昇華させる。人のアート性より信じたい所だ。

     

     

    身の回りで触るものが数年で変わってしまった。ペン、本、テスト、新聞紙、から携帯、プリンターなどのメディア自体を手にする機会が増えた。
    感受性とは、
    持ち運びの出来る画像、
    技術的な面の変化、
    それに対しての変化はおそれるにしろ、客観性を失わず。

    絵に印刷プリントをそのまま使用する、
    持ち運びの出来る画像、技術的な面の変化、新しい技法。
     

     


    精神的になるという意味で肉体的な事柄の逃御がなされる。
    ギリシャの彫刻など、見ていたら所によっては受け入られたのかも知れない。例えばもし、神の声が聞こえて、みんなで一旦神の力を使って、穴の空いた頭蓋骨や、オーパーツ、近代にも伝わる軍人の埴輪、万能の力としてある、としたら二度と使えないはずで、その中にいる身として、楽しいから、許されているのだ。これって、どんなストーリーなのだろう?めちゃくちゃ気になる。
    誰が考えたのか知らないが漫画、フキダシ、アニメ、想像の、馴染む。「禅は究極、ホンモノの方が格好良かった。」この決定にたいして私たちは納得を力ずくで買うのである。真の肯定にはまだ遠いが、幕府の整頓された考えより、近所が親しかった、仲間が緊張していた古来を含めているし、何よりアートを感覚的は誰でも理解しているのである。

    「パソコン上で」たとえあっても、実生活の態度に立ち向かいたい。気を取り戻すなかで禅を加えたい。

     

     

     

     

     

     

    〈進化〉
    着目するのは、
    人間がアニメーションに似ると云う事態である。

    人間の、空いた2つの鼻の穴、ふさふさの眉毛、身体、肌色の貧しい感覚。こんな怪しい顔面に対して、すっきりと省略された漫画のキャラクター。豊かな色彩感覚と、洗練された髪型と体の光。私たちが見てきた数々の理想の像、美しさのキャプチャで有るが、つまり人はその絵やストーリーにたいしても理想を叶えるべくして叶えて居る。光(信仰、彼女の胸)の残像としての自己への帰依と、輪郭の眼差し。この線が見た、この線が撫でた光の形。
    (それを表現するのは藝術で有るが、時代に揉まれてプレッシャーが樽んで思い出せない手触りが多い事がかゆくて、かきむしっている。)

     


    人間の〈理性〉が、カルチャーを、この天地を、加える事にたいして、再びアニメ(無声の、モノクロの)に近付く。
    自分を包んでいた希望を受け止め、乗り越えようとしている。越えることは、経験して来た客観性、影のある自分としての、希望の祈り方が正しいかである。


    眼前のアニメ、すなわち理想的な「私」から、自己が巻かれることの無い身体の光と、精神力。なりたくてなりたくてしょうがなかった。今私が生で見る太陽たちの慎と恭しさ、然りで有る。

     

    恐らく、「理性とは何か?」が、自由のパスワードだろう。

     

    それが、歌や踊りだったりするのかもしれないのだ。

     

    現代アニメと着物のオートクチュールと、液晶でも有機ELでもまだまだ箱の中での出来事で有る。私の欲しい3Dの実感とは、飛び出るアニメとは、一体愛についての見返りか、それでもささやかに希望を持ったままでいる。

     

    ただ他人が、自分と同じ自由度を持っているかどうか、ということで、コロナ禍に読みまくった詩を理解しているが、実際があっても、孤独や寂しさはそのままで、なぜなら誰と会っても自分が変わらないからだ。そのうち、いったん激しい心の消耗だと思ってあきらめた。

     

    しかし、性たるものは、閃いて、プライドをもって発言しなければ。私は言い訳を全部抱いている。

     

    何事もその日その日で感覚的に対応している。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    アニメは、それ以上踏み込んではいけない想像で、

     

    母です。

     

    アニメとは何かも過去書いてますし、

     

    語るのに、様々な高度があって、認識や自覚できれば美しいです。

     

    自覚は、それ以上動かないということです。

     

    火に手を入れ、経験の中の。

     

    自分の低所をおさえることで、

     

    自分が高いと知り、

     

    この為に天が存在し、無限に遊べるのです。

     

    ペンギンがいて、私はやさしさをやり直すのです。

     

     

     

     

    もういちどアニメの考察

    2021/08/22

     

    日記・ブログ

     

    これらは大学時代、アニメに今よりは触れてた時代に考えて居たことを書いている。

     

    考える素材として何かと広く扱って欲しい。

     

     

    物心ついたときから「夢」を無意識的に養ってきた。

     

    ストーリーはフィクションであるが、自分が内面から見て居る輝きは虚構ではないし、

     

    何でも新たな3Dへ展開させないのは、「次元」が高度な精神だから、グラフィックより手書きのほうが受け続けたりもするように、

     

    自然と私たちは平面から浮かんで抱かれ続ける。

     

    さらに、アニメの正体や、性格が、「漫画」だったのだというのを、後から知った。

    ジャンプ、名探偵コナンの単行本は、精製されていて

    強さを感じた、自分より背の高い「もの」であった。何やら輝いていた。

    自分の歳が成長して、かっこいいキャラに慣れたのではなく、人間生活をしていくうちに打ち砕かれ夢をやすっていくうちに母(アニメーション)からは距離を置いて、引きこもった。周りについていけなくなった。

     

     

     

     

    「線描」や「表情」の精度が、アニメが漫画より落ちることを

    白抜きされてるように思う、空虚である、

    それは現実だが、それが自分の方でアニメではないといった事も有る。

    「物」の重量的なものは忘れる事が無いのだ。

    他にステッカーやレコード、これらの

    神、詩の母、マザー、

    「彼女、アニメ」を見つめつづける。

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  • lady

    2021/12/10

     最も格式的な麗の有る事こそに、人は落ちて好まれるが、空に落ちること、青に落ちる事、何か光に吸い込まれてしまう事、私はそれを下品だと思います。「失せること」を、
    何が何でも夢の様で虚しかったのだが、
    そのままで良いとも思って居た。私の若い虚無も生きて居るうちに身を尽くすだろうと思って居た。
    人の云う現実は足りて居ないものです。リアルと云うのは、再び言い直せばもっと夢が有り人間らしく可笑しいものだ、と思うのです。たとえそれが幸不幸でも、
    水でも何でも、自然なら、それに対峙出来て居る現実はやはり考えながら躊躇しながら、発見した喜びが止まらないのです。

     

     

     

     手の中は、勘定をする事に趣が有る。
    魔法を大きく包めるでも無い、ただ「人は人だぞ。」と云う事。これを「愛」とした愛を、決して大きくも小さくも無い此だが。
    釈迦无二佛が何をするかと云うと、金色(こんじき)が奪った愛たちに、こうしてもう一度色彩を与えること。
    髑髏の指輪が何を数えるかと云うと、
    女が、男が、恥ぢらいを持ってして尚生まれ、垂れる、零れる花びらの魂として、私が純粋で醜き心の中を揺れる間。如来は男も女もそれ程、端た無いという事なのですが、
    それは何度も、何度も、鏡を見る。女の怠慢はゆるされている。
    女は綿毛の様に一切して選ばず、選べず、男の唇のままに進むではないか。
    花言葉や歴史的名言、疑い、何を信じて居ようが、女に取って男だけが御宗教とうつくしい事で有る。そのうえに、仏が居らっしゃる。わけがわからなくなるほどに恋をして居る。

     

     

     


     女として、光に身が辛く真っ黒に焦げそうな事が、この先も無限と云っていい程有る。
    太陽がいくらでも幾許有る様に、見た目の美人は行く所有る。そのたびに黙祷をして自己と云う点において立ち返らなければいけない。
    誰も知らぬ、私だけの人生を立てる事。 楽しめるようになれれば恐れはなく、自分だけの加工されない魅力は、これは苦しみが生むのだから、
    先ず花を花と見なすこと、悩む自分に才があること、常に何かを感じて居る事、繊細に為る事、が、人の至極万能で有ります。そうして男は花として前に立つ事です。どちらでもない、欲のない星も有り、眩いのだ。

     

     

     


     女に限っては、生まれたのなら低俗で有る事を意識しなさい。
    嫉妬は、その対象が女の最大の恐怖で有り、自分でも大変みじめで、攪乱される心を持つのです。
    そのときは、自分なりの真向うで、彼女を綺麗だと認めて口を開いて話しかける勇気を持つ事です。美は後天的なもので花の美しさだとか、気高さはここでこそ養われ、
    人間として有る唯一の性を自分が育てる気で居ないといけません。女と女が珍しく話すうちに、自己の霊格が上がって、依って、その恋が、決して男と認識し得ないひとと見抜き、
    嫌悪とは真逆であるゆき先についてを学す。
    何故なら、人間は性を持つ限り、情けが有ろうが、お金を持とうが、成功しても、初恋などににたいしては馬の様に扱われるばかりです。
    まして憧れとは病いなのですから、ペンを取りこの気持とついに仲良くしなければならないのに、花期を逃す女が何と多い。
    自分からふつふつ沸いてくる感情と友達になった時、あなたの新しい感性は咲く事が出来ます。その花弁に自分を休ませるから豊かなのです。
    理性を学び、その胸を養う。電光の様な美しい青年、それが本当に居るのかはわからないけど、が、あたかも天の川、ほくろ座、ニューヨーク、こな雪、
    「君」と云うものそう述べて、女は、走ってついていきなさい。

     

     

    天の川、ほくろ座、ニューヨーク、こな雪、そう健康的に口にする毎日で、女たちは走って。

     

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