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2013/06/16
二階の窓から手袋を落としてしまった。
見下ろすと、一階の庇の上に載っていた。
運がいい。
まだ諦めるのは早い。
窓から身を乗り出して、手を伸ばす。
指先に当たり、手袋は下に落ちてしまった。
さすがに諦めなければ。
庇のすぐ下は水面だった。
洪水なのだ。
クラゲが浮かんでいるのが見える。
川の氾濫ではない。
海が氾濫したのだ。
庇の上には他にも載っていた。
ねじれた形の黒い靴下。
いつ落としたのか心当たりもない。
それでも拾うつもりで手を伸ばした。
ところが、黒い靴下は逃げてしまった。
というか八方に散ってしまった。
それは黒い靴下ではなかったのだ。
無数の蟻が靴下の形に群がっていたのだ。
みんな苦労しているんだな、と思った。
窓から上体を引き上げ、腰を伸ばす。
はるか遠い水平線を眺める。
昔、あれは地平線だったのだ。
あそこまで裸足で歩いて行けたのに。
なんでも素手で触れることさえできたのに。
2013/06/15
保母さんの弾くオルガンの音が聞こえる。
幼い僕たちが小さな手と手をつないで
輪を作ってお遊戯をしている。
僕のすぐ隣はひとつ年長の女の子。
突然、その子とつないだ手に痛みが走る。
僕の手のひらに、彼女が爪を立てている。
幼いながらもすごい力。
驚いて横を見る。
その子の顔には憎しみが込められている。
わけがわからない。
憎まれる理由なんか思い浮かばない。
ほとんど会話したことさえないのだから。
そして、大人になった今でも謎のままだ。
ふと思い出すたびに考えてしまう。
彼女、僕のことが好きだったのでは?
などと自惚れてみたりもする。
案外、ぼんやりしていた僕が気づかないで
彼女の足を踏んだだけかもしれないけど。
2013/06/14
住所のメモだけが頼りだった。
地図はなく、電話番号もわからない。
もっとも、住所だけで十分ではあった。
むしろ、これで見つけられない方が問題である。
途中で迷ったりしながらも目的地に着いた。
入口らしくない入口から建物に入る。
受付嬢らしくない受付嬢がいたので挨拶した。
「あなたはとてもきれいだ」
受付嬢はにっこり笑う。
「では、こちらへどうぞ」
合い言葉が通じたのだ。
奥へ案内された。
そこは殺風景な狭い部屋だった。
「壁から手を離さないで、お待ちください」
当惑したが、とりあえず壁に両手を当てた。
「片手で結構ですよ」
受付嬢はにっこり笑いながら立ち去った。
しばらくすると、裸の少女が現れた。
顔はあどけないが体は違うのだった。
手を伸ばしたが惜しくも届かなかった。
壁から片手を離してはいけないのだ。
そこで、手を滑らせながら壁を移動した。
すると、裸の少女も移動するのだった。
少女の白い肌に触れることができない。
部屋の出入り口で壁が切れているからだ。
壁から自由な少女は出入り口を越えてしまう。
走り疲れて、ついに床に座り込んだ。
それでも片手は壁から離さなかった。
すると、少女は近寄ってきた。
聖母のようなやさしい眼差しだった。
ようやく少女の乳房に触れることができた。
「あなたは合格です」
そう言うと、裸の少女は部屋を出ていった。
それにしても、疲れた。
突然、頭の上から男の声がした。
「こちらに来たまえ」
見上げると、天井に穴があいていた。
そこからロープがゆっくり下りてくる。
その口ープをにぎり、壁から手を離す。
その途端、床が二つに割れた。
あわてて両手でロープにしがみつく。
割れた床の下は真っ暗闇だった。
必死でロープをのぼってゆく。
天井の穴を抜けると広い部屋に出た。
そこには大勢の人々が待っていた。
「よく来た」
背の高い男が発言する。
さっきの男の声だ。
「あやうく死ぬところだったぞ」
男の顔をにらみ、文句を言う。
穴が大きくて、まだ足が床に届かない。
ロープをにぎる手がしびれてきた。
背の高い男は低い声で笑った。
「許せ。これも手続きなのだ」
その途端、両手の力が抜けてしまった。
2013/06/12
僕の家は五人家族。
お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、そして僕。
「いい子にしているんだぞ」
ある日、お父さんが家を出て行った。
「いい子にしているのよ」
ある日、お母さんも家を出て行った。
「いい子でいろよ」
ある日、お兄さんも家を出て行った。
「いい子でいてね」
ある日、お姉さんも家を出て行った。
だけど、誰も家に帰って来なかった。
みんな失踪してしまったのだ。
僕だけ家に残された。
警察に捜索願を出したけど、受理されただけ。
市役所に相談したけど、心配されただけ。
学校にも通ったけど、勉強しただけ。
それだけ。
僕はいい子になって、いい子のままでいた。
掃除したり、洗濯したり、自炊したり、忙しい毎日。
挨拶したり、回覧板まわしたり、近所付き合いも忘れない。
近頃、僕は思うんだ。
お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さんは
この家を僕に残してくれたのかなって。
僕がいい子にしていたから。
2013/06/11
マサト君という変な大人の知り合いがいて
僕の言う事をちっとも聞いてくれないので
僕は困っているんだけど
その事を友だちの、ええと
友だちなのに名前を忘れちゃって申し訳ない。
その友だちに相談したら
「ああ、それならロンちゃんに頼むといいよ」
と言うんだ。
「ロンちゃん?」
「そう、ロンちゃん」
「何、それ?」
「ほら、そこに手鏡があるだろ」
とコウが
あっ、思い出した。
コウという名前だった。
その友だちのコウが言う通りに
コウの家の座敷の部屋の隅にある
ゴチャゴチャした棚の上みたいなところに
小さな丸い手鏡があって
「しばらく覗いていると出て来るよ」
じっと手鏡の中を覗いていたら
僕の後ろから変な顔の男の子が現れて
僕の肩のところにアゴをのせるみたいにするんだ。
でも肩にはそんな感触、全然なくて
振り向いても誰もいなくて
でも鏡の中にはいるんだ。
「ああ、ロンちゃんだ」
そうだ、そうだ。
昔から知ってる子だった。
久しぶり。
鏡の中のロンちゃんが笑ってる。
そう言えば、ロンちゃんは喋れない子だった。
僕がマサト君の事を相談しようとしたら
どこからか、その本人のマサト君がやって来て
僕の手から手鏡を取り上げて
ロンちゃんと話し始めた。
それで僕は、もう大丈夫だ。
と、すっかり安心してしまって
白いイカのようなプヨプヨしたのに挟まれた
ハンバーグみたいな食べ物を
食べながら待つことにしたんだ。
2013/06/11
オフィスを出ようとしていたら
女子社員のひとりに呼び止められた。
「これ、素敵ね」
彼女のデスクの上に胸像が置いてある。
それをボールペンの先で示しながら
彼女は感心したような表情をしている。
石膏を削って表面に着色したもの。
彼女の姿形に似せて僕が作り、
僕が彼女にプレゼントしたものだ。
「それは、どうもどうも」
嬉しくなり、彼女と話し込もうとしたら
別の女子社員が声をかけてきた。
「これも素晴らしいと思うわ」
その彼女のデスクの上にも胸像が置いてある。
やはり僕が作ってプレゼントしたもの。
さらに他の女子社員たちの声が重なる。
「私、こっちが好き」
「これが一番いいわ、私は」
「ううん。こっちのが最高よ」
どうやら、この部署の女子社員、
見境なく全員にプレゼントしたらしい。
みんな、顔をこちらに向け、
みんな、僕の作晶を褒めてくれる。
嬉しくて涙が出そうになる。
「みんな、ありがとう」
それから、僕はオフィスを出ると
もう二度と戻って来なかったのだった。
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2013/06/09
殴られた記憶がある。
かなり昔の話だが忘れてはいない。
殴られたら誰だって痛い。
誰だって痛いから、誰だって
相手の痛みを想像できないはずはない。
それなのに相手を
なぜ殴る事ができるのだろう。
自分がされて困る事を相手にする人は
まったく理解に苦しむ。
本当に困った人だ。
嫌われても仕方ない。
それでも構わないとしたら
不幸な人だ。
いつか殴り返されるだろう。
あるいは
刺されるかもしれない。
たとえば、ほら
こんなふうに背後から、不意に。
2013/06/08
父が台所で料理をしている。
フライパンの上で卵焼きを作り
その上に切り揃えたほうれん章を載せ
さらに全体を筒状に丸めようとしている。
なかなかおいしそうだ。
だが、父の料理姿など見た記憶がない。
そもそも父は亡くなったのではなかったか。
いつの間にか、父の姿は消えている。
台所にいるのは母てある。
フライパンの上で牛肉を焼き
その上に切り揃えたねぎを載せている。
それから全体を筒状に丸めるのだろう。
「おいしそうだね」
母に声をかけると、小言が返ってくる。
「私はもう年寄りなんだから
もうすぐ動けなくなるんだから
料理くらい手伝ってくれてもいいのに」
またか、と思う。
親が動けなくなれば世話するしかないが
まだ動けるうちから世話する気になれない。
甘えているのではないか。
そう思うのだが
しかし、とも思う。
子どもが小さいうちは世話するしかないが
子どもが大きくなっても世話するのは
甘やかしではないか。
「手伝おうか・・・・」
だが、もう台所に母の姿はない。
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2013/06/06
海岸なのに海は見えないのだった。
大男が大きなオートバイに乗り
砂浜を颯爽と横切ろうとしている。
心配していると、やはり横倒しになった。
水着の女たちの大袈裟な悲鳴が聞こえる。
それからどうなったのか
あまり気にせずハンバーグ屋へ入る。
じつは違うのかもしれないが
とにかくハンバーグ屋のような店だ。
やや長い行列がレジ前にできている。
私が並んだ列のすぐ手前の男が
隣の列の女と会話をしている。
「それは嘘だろ。絶対に嘘だ」
「だって、こんな辺鄙な海じゃないもん」
「わがまま言うなら、おれは帰る」
その男、行列から抜け出ようとしながら
なんのチケットか不明だが
また、どうして持っていたのかも不明だが
とにかく私が手に持っていたチケットを
さっと奪ってしまうのである。
男の服の袖をつかむことができたので
私は引っ張り、さらに男の手首をつかむ。
「おい。チケット返せ」
なかなか凄味のある声なので
どうも自分の声ではないような気がしてくる。
まあ、それはともかくである。
この店の窓からも
まったく海は見えないのだった。
2013/06/05
真昼の川に落ちたなら
白い魚になるものを
夜中の川に落ちたれば
夜の女になりましょう
魚が いいか
女が いいか
白い魚は
川を泳ぐに
夜の女は
浮世を泳ぐ