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  • おめでとう

    2014/10/28

    論 説

    「おめでとう」と言われて 
    素直に喜ぶ人がいる。

    「関係ない」
    そう思う人もいるだろう。

    「ふざけるな!」
    怒る人だっているかもしれない。


    ひとつの言葉なのに 
    受け止め方はいくつもある。


    だから問題なのは 
    言葉ではない。

    それが置かれる位置と置き方とタイミングだ。

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  • 約束しよう

    2014/01/16

    論 説

    約束してはいけない。

    それは 
    あなたを縛るから。


    「ああしろ」
    「こうしろ」

    過去のあなたが 
    未来のあなたに言いつける。


    いつかのどこかに 
    あなたを固定する。

    こいつやあいつに 
    あなたを従属させる。


    見えない手枷足枷、
    重い鎖、または牢獄。

    信頼やら誠意やら愛情やら 
    曖昧模糊を証文に。

     

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  • 誰か教えて

    2013/08/31

    論 説

    わからないことの多くは 
    調べれば知ることができる。

    調べてもわからないなら 
    質問すれば大抵は教えてもらえる。

    自分で確認できる内容なら 
    その結果が正しいかどうかもわかる。


    しかしながら 
    どうしても自分で確認できない場合 

    それが正しいかどうか 
    どうやって知ることができよう。
     

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  • 「死」の考察

    2012/06/26

    論 説

    「死は私と関係ない。
     私がいるうちは死んでおらず、死んでしまえば私はいないから」


    悟ったように昔の賢人は語ったが、はたして本当だろうか。

    「死」と「私=生」は、さような小賢しい理屈通り
    きれいに分離されているものだろうか。


    年々老い、若さと力を失い、疲れやすくなり、意欲が減り、
    意識は薄れ、苦しく辛く耐えがたい痛み、そして・・・

    これでは、まるで
    生きながら少しずつ死んでいるようなものではなかろうか。


    「無」そのものと同様、「死」そのものを感じることはできぬとしても
    その影の冷たさ厭わしさは

    「私=生」の減少または衰退、あるいは
    虫食いの病葉の如きものとして実感せらるるはずである。


    ゆえに、死後ならともかく、完全に死ぬ直前まで
    「私=生」は「死」と無関係である、とは決して言えまい。


    物事は単純に割り切れない。

    残念ながら。
     

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    • Tome館長

      2013/11/11 21:54

      「しゃべりたいむ・・」かおりさんが朗読してくださいました!

    • Tome館長

      2012/06/27 12:30

      「こえ部」で朗読していただきました!

  • 考える配分

    2012/06/17

    論 説

    よくよく考えてみれば

    今、見えるものより
    今、見えないものの方が

    今、聞こえる声より
    今、聞こえない声の方が

    はるかに多いはずである。


    とすれば、われわれは

    今、見えるものより
    今、見えないものについて

    今、聞こえる声より
    今、聞こえない声について

    より多く考えるべきであろう。


    もし今、余裕があるなら。
     

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  • あなたへの手紙

    2012/02/22

    論 説

    これは、あなたへの手紙です。


    私にとって見知らぬあなたへ
    あなたにとって見知らぬ私が

    これより語りかけてみます。


    不躾で申し訳ありませんが、

    あなたは
    自分が自分だと思ってますよね。

    つまり、
    この手紙を読んでいるのは

    一人称の自分である、と。


    それは、そうに違いないと思います。

    綴られた文面の意味を理解したり
    内容を疑ったりしながら

    これを読んでおられる事でしょう。

    主語や述語などの文法も含め
    自他を区別しない訳にはいかないはずです。


    しかし、これが手紙ではなく
    絵画や音楽の鑑賞であったらどうでしょう。

    それが素晴しい名作であれば
    「われ」を忘れて鑑賞するのではないでしょうか。


    どういう事かと申しますと、

    自分を意識する必要がなければ
    自分は必要でない、という事です。


    また、「私」「僕」「俺」などと
    自称を呼び替えるように

    場の状況によって
    微妙に自分を変化させますね。


    このように自分は意識の産物であり、
    あったりなかったり変化したりするものです。


    「われ思う。ゆえに、われあり」
    かもしれませんが、

    「われ思わぬ。ゆえに、われなし」
    でもあるわけです。


    ですから、
    私が私を意識しなければ私はなく、

    あなたがあなたを意識しなければ
    あなたはないのです。


    それだけです。


    もう、あなたは
    私を忘れてくださって結構です。

    私もあなたを忘れます。

    この手紙の事も忘れてください。


    では、さようなら。

    もしかしたら私かもしれない、あなた。
     

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    • Tome館長

      2012/03/08 15:06

      「ゆっくり生きる」haruさんが{リンク:}動画にしてくださいました!

    • Tome館長

      2012/03/08 15:03

      「こえ部」で朗読していただきました!

  • 対角線論法は詭弁

    2011/11/06

    論 説

    有限を対象とするならともかく、無限を対象とする場合、対角線論法は詭弁である。
    無限なものを有限であるかのように扱うから騙される。


    番号順に並べられたとする実数の行列の対角線部分の数列を別の数値に置換したなら、そうして作られた対角線上の新たな実数は元の番号順に並べられたとする実数の行列の最後に加えられるべきであって、この操作を無限に繰り返さねばならないからこそ、無限なのである。

    番号順に並べ終わった有限のものとして扱うから矛盾するのであって、無限に並べ続けねばならない無限のものとして扱うなら、矛盾は繰り返し無限に回避される。

    対角線論法の背理法により証明されるのは、実数の有限性の否定であって、可付番性の否定ではない。


    そもそも確定した実数に番号を付ける(自然数を一対一に対応させる)ことは可能である。

    0以上1未満の実数に番号を付ける場合を以下に説明する。
    便宜上、十進法表記を二進法に書き換える。

    0.0               1
    0.1               2

    0.01               3
    0.11               4

    0.001              5
    0.011              6
    0.101              7
    0.111              8

      ・                ・
      ・                ・
      ・                ・

    「0.0」の後に出現する「0.00」、同じく「0.1」の後の「0.10」など、前出に等しい実数は無視するとして、小数点以下の表示桁数を増やしながら、上記ナンバリング作業を無限に繰り返すだけである。


    上記小数表示の行列の中に無理数は含まれるか、という問題は、1/3が含まれるか、という問題と重なる。
    なんにせよ、有限において上記小数表示ができない実数は、無数にあるはずである。

    しかし、有限において小数表示できない実数があることと、それら実数が存在しないこととは、別問題。

    それら有限において確定できぬ実数は、無限のかなたに無限の状態においてのみ存在する。
    そして、ナンバリング作業も無限に続き続ける。

    つまり、無限の小数表示では個々が確定できない。
    個々が確定せねば、番号を付けることもできない。

    よってまた、無限小数表示の対角線論法には無理があるのである。


    そもそも限りなきを限ること自体に矛盾が潜む。
    「実数全体」と限れば、すでに矛盾している。
    「無限」を有限の如く語れば、矛盾するしかあるまい。


    あるいは、これこそ詭弁であろうか。
     

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  • わかる?

    2011/10/25

    論 説

    わかる?
    わかんない?


    だいたい、わかる人って
    わざわざ説明しなくても
    わかってくれるよね。

    わかんない人は
    いくら説明しても
    わかってくれないし。

    つまり、説明なんか
    ちっとも意味ないわけだ。


    そりゃまあ

    わかるかわかんないかわかんないような
    境界線上の人たちも
    少なからずいるだろうさ。

    でもね、

    説明しないとわかんない人たちといると
    リズムとか狂いっぱなしで
    疲れると思うんだ。


    だから、この馴れ馴れしくて
    くだけきった口調の話にしたって

    説明なしにわかる人だけ
    聞いて欲しいんだ。

    そして、わかる人だけ
    ウンウンうなずいて欲しい。


    それだけ。

    わかってくれた?
     

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  • 矛 盾

    2011/10/18

    論 説

    完全な矛(ほこ)があった。
    どんなものでも貫いてしまう。

    完全な盾(たて)もあった。
    どんなものでも防いでしまう。


    どちらも互いの存在が許せなかった。
    真実を賭け、矛と盾は決闘することになった。


    どちらが残るか、世界が見守った。


    矛は盾を貫いた。
    なぜなら完全な矛だから。

    盾は矛を防いだ。
    なぜなら完全な盾だから。


    それは、世界が二つに裂けた瞬間であった。
     

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  • ヘビの論理学

    2011/08/11

    論 説

    AがBよりも強く、
    BがCよりも強いなら

    一般にAはCより強いとされる。


    だが、成立しない場合がある。

    たとえば、ジャンケン。

    グーがチョキに勝ち、
    チョキがパーに勝ち、

    なのにグーはパーに負けてしまう。


    これは、三匹のヘビがいて

    ヘビAがヘビBの尻尾を噛み、
    ヘビBがヘビCの尻尾を噛み、
    ヘビCがヘビAの尻尾を噛む、

    という三つ巴の関係である。

    つまり、順番の列がまっすぐでなく、
    曲がり、連結し、環状になっている。


    このような環状の構造を持つ世界では

    まっすぐな構造を持つ世界での常識が
    ほとんど通用しなくなる。


    もし、陸上競技場のトラックで
    ウサギとカメが競走したら、

    ウサギがカメをいくら追い越しても

    ウサギの前にいるのは
    いつもカメである。


    また、環状の構造を持つ論理では
    真でありかつ偽である命題が成立する。

    つまり、矛盾が許されてしまう。


    完全な矛が存在する。
    その矛は、とにかくなんでも貫く。

    完全な盾も存在する。
    その盾は、とにかくなんでも弾く。

    そして、もし矛と盾が衝突すれば

    矛は盾を貫き、
    盾は矛を弾くのである。

    互いの尻尾を噛み合う二匹のヘビのように。


    なお、矛盾しない矛盾の正体は
    自分の尻尾を噛む一匹のヘビである。
     

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