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    Works 3,356
  • 御守り

    大型旅客機が墜落した。
    機体は跡形もなく大破した。

    原因不明の大惨事であった。

    ところが一名、
    奇跡的にも生存者がいた。

    しかも、まったくの無傷なのだった。

    さっそく病院にて記者会見が行われた。
    それは生中継で全国に放送された。

    「まさに奇跡ですね」
    「ええ、まあ」

    その男は落ち着いていた。

    「どうして助かったのですか?」
    「たぶん、この御守りのせいでしょうね」

    男はありふれた御守りを取り出して見せた。


    全国の視聴者から冷たい視線が注がれた。

    (なんだって? 御守りだって?)


    その瞬間だった。
    病院が爆発したのは。

    建物は跡形もなく崩壊した。
    全員が即死であろうと思われた。

    ところが、たった一名、
    生存者がいた。

    しかも、まったくの無傷なのだった。


    男は深くため息をつき、
    御守りを見下ろして呟いた。

    「・・・・・・そんなに自慢したいわけね」
     

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    • Tome館長

      2012/06/23 11:36

      ケロログ「しゃべりたいむ」かおりさんが朗読してくださいました!

    • Tome館長

      2012/05/01 15:37

      「こえ部」で朗読していただきました!

  • 丘へ続く小道

    遠い海鳴り、
    忘れられない記憶。


    海岸から丘へ這う蛇のような小道があった。

    目を閉じたまま
    僕はその小道を歩いていた。

    そんなふうに歩くのが好きだったのだ。

    小道は丘の上の白い家まで続いていた。

    大きな別荘で
    誰も住んでいなかった。

    こんな秘密の家が欲しいな、
    と思っていた。

    もうすぐ夏。
    海風が気持ちよかった。


    女の子の笑い声がしたので
    目を開いた。

    「だめよ。見ちゃダメよ」

    白い家の窓から
    小さな顔がのぞいていた。

    「そっちへ行くから、目をつむってなさい」

    玄関の扉が開き、
    あわてて目を閉じた。

    いかにも軽そうな足音が近づいてきた。

    「昨日も、同じことしてたよね」

    恥ずかしかった。
    どんな女の子だろう。

    「見ちゃダメよ。今、裸なんだから」

    思わず目を開いてしまった。

    ウソだった。
    彼女は水着姿で笑い転げた。


    「あのね。いいもの見せてあげる」

    彼女に手を引かれ、
    白い家の中に入った。


    それだけ。

    あとは記憶がない。
     

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  • おかしな鶏

    2008/08/30

    変な話

    ある朝、鶏が玉子を一個産みました。
    割ると、中からルビーが出てきました。

    「あら、楽しみにしてたのに」

    料理好きのお母さんはがっかりです。


    次の朝、玉子から出てきたのは砂金でした。

    「こんなおかしな鶏は捨ててきなさい!」

    お父さんは怒ってしまいました。


    「ふつうの鶏だったら良かったのにね」

    真珠とダイヤモンドの転がる並木道を
    鶏を抱えて歩く少年の姿がありました。
     

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  • エレベーター

    2008/08/30

    怖い話

    目の前で扉が左右に開いた。
    ひとり、灰色のエレベーターに乗る。

    狭くて殺風景な直方体の箱。
    振り返ると、そこは長方形の闇。


    そして、ヒステリックな靴音が響く。
    闇の中から誰かが駆けてくるのだ。


    あわてて操作パネルのボタンを押した。
    見知らぬ女の姿が、闇の奥から現われる。

    「閉めないで! お願いだから閉めないで!」

    そう叫ぶ女の目の前で扉は閉まる。
    扉越しに、扉を叩く音と叫び声が聞こえてくる。

    「開けて! 開けて! 開けて!」


    不安になる。
    扉が開くかもしれない。

    もし扉が開いたら、あの女の目が恐ろしい。
    箱の中では、もう逃げることなどできないのだ。


    しかし、エレベーターは静かに下降を始めた。
    思わずニヤリと笑う。

    (これで安心だ)

    速度を加えながら、下へ下へと落ちてゆく。
    操作パネルのボタンに目をやる余裕さえできた。


    (はて、どのボタンを押したのだろう)

    あわてたから、見もせず適当に押してしまった。

    だが、ボタンの数はごくわずかだった。


    『天国』と、『地獄』と・・・・・・!
     

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  • 占いの館

    2008/08/29

    ひどい話

    森の奥に古い館があった。

    ひとりの老婆が住み、占いをするがゆえ
    「占いの館」などと呼ばれていた。

    予言がことごとく的中するという評判で
    辺鄙な場所なのになかなか繁盛していた。


    ある日、ある男がこの古い館を訪れた。

    玄関の扉を叩いたが、返事はなかった。

    男は諦めずに扉を叩き続けた。
    古い扉が壊れてしまいそうだった。

    しばらくして、扉の向こうで声がした。

    「もう占いはやめたよ」

    老婆の声であった。
    扉を開けるつもりはなさそうだった。

    「そんな。お願いしますよ」
    「もう占いはやめたんじゃ」

    「どうしてやめたんですか」
    「わしの勝手じゃ」

    「せっかく、ここまできたのに」
    「諦めるんだね」

    「でも、命にかかわることなんですよ」
    「わしゃ知らん」

    それでも男は扉を叩き続けたので
    とうとう玄関の扉が割れてしまった。

    「なんてことをするんじゃ!」

    扉の割れ目から老婆の怒った顔が見えた。

    「す、すみません。弁償します」

    立派な体格の男が小さくなって謝った。

    「おや?」

    老婆は男を見て驚いたようだった。
    扉を開けると、まじまじと男の顔を見た。

    「なんとまあ!」

    「お婆さん、どうしました?」
    「これはまた珍しい」

    「私の顔がですか?」
    「うん、そうじゃ」

    「まさか、死相が出ているとか」
    「いや。死相はない」

    「本当ですか?」

    「だから珍しいのじゃ」
    「は?」

    「立ち話は疲れるな」

    老婆は男を館に入れた。

    男が通されたのは飾り気のない小部屋。
    どこにも怪しげな雰囲気はなかった。

    男を長椅子に腰かけさせると
    老婆は向かい合って籐椅子に座った。

    「わし、もう占いをする気がなくなってな」
    「なぜですか?」

    「わし、もうすぐ死ぬからな」

    男は返事に詰まった。

    「わしだけじゃない。みんな死ぬ」

    「ということは、つまり」
    「そう。みんなに死相が出ておる」

    ここを訪れる占いの客だけでなく、
    会う人すべてに死相が出ているというのだ。

    「だが、あんたには死相がない」

    男は黙ったまま老婆を見つめていた。

    「命にかかわるとか言っておったな」
    「ええ」

    「なにを占って欲しいんじゃ?」
    「いえ、結構です。もうわかりましたから」

    男は立ち上がった。

    「お婆さん。ありがとうございました」

    「あんた、旅に出るのかい?」
    「わかりますか?」

    「なんとなくね」

    「とても遠いところなんです」
    「そうだろうね」

    「扉、壊してしまって、すみませんでした」
    「いいよ。風が入ってきて涼しいから」

    「おいくらでしょ?」
    「代金はいらん。もう使う暇がなかろう」

    男は老婆に頭を下げた。

    「失礼いたしました」

    背を向けた男に老婆が声をかけた。

    「あんた、飛行機乗りかな?」
    「ええ、まあ、そんなもんです」

    「出発はいつだね?」
    「明日です」

    「そうか、明日かね」

    男はもう一度頭を下げた。

    「さようなら」
    「ああ、達者でな」


    男は館を出ると、森を抜け、駅へ急いだ。
    すでに日は暮れ、一番星が輝いていた。

    出発は明日の朝。あまり時間がなかった。

    途中でタクシーを拾うことができた。
    男は運転手に行き先を告げた。

    「ちょっと遠いけど、ロケット発射場まで」
     

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    • Tome館長

      2013/01/22 01:32

      「こえ部」桃子さんからいただいたお声で動画を作りました!

    • Tome館長

      2012/04/29 14:26

      「Spring♪」武川鈴子さんが朗読してくださいました!

    • Tome館長

      2012/04/20 02:41

      「こえ部」で朗読していただきました!

  • 裏返しの姉

    2008/08/28

    ひどい話

    夜更けに寝室を覗くと、姉が裏返っていた。
    あちこち骨が突き出て、内臓が露出していた。

    「やれやれ。しょうがないな、まったく」

    裏返った姉は、いくら怒鳴っても聞こえない。
    両耳とも体の内側に潜ってしまうからだ。

    口も鼻も内側に潜るので、呼吸が心配になる。
    ところが、肺も裏返しなので大丈夫なのだ。

    でも、胃腸も裏返しになるからたまらない。
    ベッドのシーツが汚れて、ひどい臭いだ。

    こんな状態で姉はどんな気持ちなのだろう。
    あるいは空腹を感じているだけかもしれない。

    「ちぇっ、弟の苦労も知らないでさ」

    裏返った姉をもとに戻すのは大変な仕事だ。

    まず、裏返った肺または胃に手を突っ込む。
    それから、気管または食道を手探りで進む。
    裏返しの顎をつかんだら無理やり引き出す。

    途中、眼球が抜け落ちやすいので注意する。
    それから、柔らかい内臓を傷つけないこと。

    さらに、子宮と直腸も同様に引っくり返す。
    腕と脚は骨を押し出す。汗びっしょりになる。

    頭蓋骨が大変だ。多少の損傷はしかたない。
    脳がいくらか欠けたとしても許してもらう。

    とうとう夜が明けた。精も根も尽き果てた。

    「あら、おはよう。どうしたの?」

    ようやく目覚めた姉は、寝ぼけ顔なのに
    すっきりしたような表情をしている。
     

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  • 海の王子

     
    もう随分昔のことですが、
    珊瑚の髪を波に洗う海の王子がおりました。


    王子がヒトデを枕に海面を見上げると、
    クラゲがいくつも浮かんでいたそうです。

    「ああ、海の王女はどこにおられるのか」

    呟きは泡となり、海中をのぼるのでした。


    夕焼けより美しいという伝説の王女。

    魔女にさらわれた王女をさがし求め、
    王子は長く苦しい旅を続けていたのでした。


    ふと、王子の耳もとで囁く声がしました。

    「王子様、私が海の王女です」

    それは真珠のように美しい声でした。

    ところが、その姿ときたら、
    まるで排泄物のように醜いのでした。


    「・・・・・・かわいそうに」

    王子はすぐに理解しました。

    海の王女は、嫉妬深い魔女のせいで
    ナマコに変身させられていたのです。


    「王子様の接吻で、もとの姿に戻れます」

    醜いナマコの美しい声でした。


    さて、ここで王子は困ってしまいました。


    王子は決意していたのです。
    美しい海の王女を見るまでは死ねない、と。

    また、王子は覚悟もしていました。
    醜いナマコにキスするくらいなら死ぬ、と。


    そこで、海の王子は悩んでしまいました。

    ナマコのまわりを歩きまわりながら、

    首を振ったり、ため息をついたり、
    いつまでもいつまでも悩むのでした。


    美しい珊瑚の髪をかきむしりながら、
    今でも王子は悩んでいるかも知れませんよ。
     

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    • Tome館長

      2012/08/17 17:53

      ケロログ「しゃべりたいむ」かおりさんが朗読してくださいました!

    • Tome館長

      2011/10/17 19:32

      「瞬きすれば、まぼろし」アカリさんが朗読してくださいました!

    • Tome館長

      2011/09/12 20:48

      「こえ部」で朗読していただきました!

  • 美しいドレス

    2008/08/26

    切ない話

     
    そのドレスを着る者は美しくなれるという。

    花の妖精が虹と朝露で織った七色の生地を
    七人の魔女が七年かけて縫いあげたもの。

    これを着れば誰でも絶世の美女になれる。
    どんな醜い女でも、たとえ死にそうな老女でも。


    「よう。朝から景気いいな」
    「ふん。好きで飲んでるわけじゃねえよ」

    「おまえ、まだ墓荒らしやってんだってな」
    「いや。もうやめた」

    「嘘つくな」
    「この前の荒らしを最後にやめたんだ」

    「ははあ、たんまり儲けたか」
    「いや。やる気がしなくなっただけさ」

    「さては、気持ち悪いのでも出てきたか」
    「きれいなドレスを着た骸骨が出てきたよ」

    「なんだ、そりゃあ」
    「やけに美しいんだ、その骸骨」

    「おまえ、どうかしちまったんじゃねえか」
    「ああ、惚れちまったよ」
     

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    • Tome館長

      2012/12/10 13:10

      「こえ部」で朗読していただきました!

    • Tome館長

      2012/02/24 18:38

      「ゆっくり生きる」haruさんが動画にしてくださいました!

  • 兎の島

    2008/08/25

    愉快な話

    昔、この島に、たくさんの兎がすんでいた。
    動物は、兎の他に一匹もいないのだった。

    ある日、一羽の兎が海岸を散歩していると
    砂浜で見知らぬ動物を見つけた。

    波打ち際に倒れていたのは、一匹の狼。
    どうやら漂流して、島に流れ着いたらしい。

    「いったいなにかしら? 大きな口だけど」

    長い耳を傾けて、兎は考え込んだ。
    だが、いくら考えてもわかるはずがない。

    やがて、気絶していた狼が目を覚ました。
    立ち上がると、あたりを見まわす。

    「なんだ? ここはどこだ?」

    当惑している狼を見上げて、兎は答えた。

    「私は兎。ここは兎の島。あなたは誰?」
    「おれか? おれは狼だ」

    空腹だったので、狼は兎を食べたくなった。
    でも、かわいらしいので、襲う気になれない。

    「他に食べ物、いや、動物はいないのか?」
    「この島にいるのは私たち、兎だけよ」

    仲間が集まってきた。かわいらしい兎ばかり。
    人参を食べる子兎が、またかわいらしいのだ。

    心やさしい狼は、すっかり困ってしまった。

    悩みに悩んだ末、狼は子兎に飛びかかった。
    子兎から人参を奪うと、狼は噛みついた。

    狼は涙を流しながら、人参を食べるのだった。
    兎たちは、そんな狼の姿に同情してしまった。

    「よっぽどおなかを空かせていたんだね」

    それから、この狼がどうなったかというと
    兎たちと一緒にずっと仲良く暮らしたという。


    つまり、そういうわけなのだ。
    この島に、人参を食べる狼がいるのは。



    【 Rabit Island 】

    Long time ago, there lived many rabbits in a small island.
    There were no other creatures except rabbits.

    On a sunny day, a rabbit was taking a walk along the beach
    when suddenly he came across an animal which he had not seen before.

    It was a wolf lying down on the beach.
    It seemed like the wolf was drifted ashore and was unconscious.

    "What happened?", the rabbit asked.

    The rabbit thought over this, raising his ear in doubt,
    but couldn''t figure it out.

    Before long the stunted wolf woke up.
    "Where am I?" he asked getting up with pain.

    The rabbit looked up at the dazed wolf and said
    "I am a rabbit and this is our island, but you, where do you come from?".

    The wolf replied, "Me? I am a wolf".

    The wolf was so hungry that he wanted to devour the rabbit
    but the rabbit looked so cute that he refrained from this.

    The wolf asked
    "Is there any other animal to serve as food for me on this island?",
    to which the rabbit replied,
    "I am afraid there are only rabbits in this island".

    Soon, all the rabbits on the island gathered together.
    The baby rabbits were eating carrots and they were so cute.

    The wolf was confused as to what to do.

    He thought over and over again and finally he jumped at the baby rabbit,
    grabbed the carrot and took a bite.

    He ate up the carrot with tears and the sight was so moving
    that they had sympathy for him,
    at the thought he must be very hungry.

    From that time the wolf and the rabbit lived together happily.

    This is why the wolves eat carrots on this island.


    (黒人男性と結婚することになった花嫁(日本人)が
     その披露宴にて英語で朗読したい、と短い話を所望。

     書いて渡した和文を花婿の知人が英文に翻訳)
     

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  • 家に帰る

    2008/08/24

    切ない話

    妻は出産のために入院中だった。 
    自宅となるはずの家は新築中だった。

    私は、その建築現場をぼんやり眺めながら
    つまらぬことを考えてしまうのだった。

    家を建て、子どもを育てる。
    その子どもが大きくなり、やがて家を出る。

    結婚して、親になって、つまり孫ができる。
    そうして私は老人になり、いつか死ぬ。

    ありふれて退屈なシナリオか。


    「あたし、ここに住んでいたの」

    ふと、耳もとで声がした。

    振り返ると、視野いっぱいの笑顔で
    私のすぐ後ろに少女が立っていた。

    知っている顔のような気がしたが
    よく見ると、知らない顔なのだった。

    「ご近所の方ですか?」
    「あたし、この家に住んでいたの」

    彼女の目付きはなんだかあやしく
    私は次の言葉が出せなかった。

    ここは我が家の先祖代々の土地で
    亡くなった親父から私が譲り受けたもの。

    駐車場だった土地で、その前は畑だった。

    「あたし、この家から逃げてきたの」

    明らかにまともではなかった。
    私は黙って彼女を見つめるしかなかった。

    その大きな瞳から涙がこぼれた。
    困った。なにか声をかける必要があった。

    「どうして家から逃げたの?」
    「あら、そんなこともわからないの?」

    私にわかるはずがなかった。
    潤んだ瞳で私を見つめないで欲しい。

    「お願い。私を抱いて」

    この少女には脈絡というものがなかった。
    私はおろおろするばかり。

    かわいそうに、やはり彼女は狂っているのだ。
    素直に抱いてやった方が無難な気がした。

    ここが建築現場のすぐ前でなかったら
    本当に抱いたやったかもしれない。

    狂っていなければ、十分に魅力ある子だ。

    「ちょっと、ちょっと待ってくれ」

    私はあせった。なんとかしなければ。

    「いったい君、どうしたの?」
    「あたし、会いたかったの」

    「誰に?」

    彼女は黙ってしまった。
    どうやら私に会いたかったらしい。

    「でも、もういいの」

    彼女は涙をぬぐった。

    「想像していた通りだったわ」

    どんなことを想像していたのか不明だが
    もう彼女は笑顔に戻っていた。

    「あたし、やっぱり家に帰る」

    「この家に?」
    「そうよ。この家に帰るの」

    やはり冗談が通じないのだった。
    まだ屋根もできていない家に入らないでくれ。

    「じゃあ、さようなら」
    「さ、さようなら」

    「交通事故には気をつけてね」

    また変なことを言う、と思った。
    君こそ気をつけた方がいいぞ。

    「ああ、そうする」
    「お母さんを悲しませないでね」

    ますます、いかれてる、と思った。
    私のおふくろは亡くなって久しかった。

    「ああ、そうだね」

    悲しそうな笑顔で、彼女は応えた。

    見覚えのあるような笑顔だった。

    どことなく私の姉に似てなくもないが
    まったく似てないようでもあった。

    「いつまでも元気でね」

    彼女は、私に手を振って見せると
    新築中の家に背を向けて歩み去った。

    それで、やっと私は安心したのだった。


    すぐに少女のことなど忘れてしまった。
    毎日、なにかと忙しかったのだ。

    建築現場と会社と病院を往復している間に
    病院で私の子どもが生まれた。

    母子ともに健康であった。
    赤ん坊を抱いた妻の笑顔がまぶしかった。

    ふと私は、あの少女の笑顔を思い出した。
    似ていたのだ。そっくりであった。

    「おまえ、妹なんていないよな」
    「いないわよ。なに言ってるの」

    本当に私はなにを言っているのだろう。
    まるで狂った人みたいではないか。

    「いや。なんでもない」
    「変な人ね」

    まったくだ、どうかしている。
    だが、本当になんでもないのだろうか。

    私は生まれたばかりの赤ん坊の顔を見た。
    それはほとんど猿の泣き顔だった。

    娘の笑顔を早く見たいな、と思った。
     

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