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2011/11/26
デッサンの目的
・世界の正しい把握
…物質・物体のこと、非物体のこと、すべてのものへの造詣を深める(デッサンを始めると、物事の見え方について考え出すことが増えます。学問全体への興味も生まれます)
・観察(感性の開拓)
→かたち、色、質感、重量、におい、境界線など五感を使って感じられるものをていねいに観察し表す努力をするなかで
人間としての感性をさらに研ぎ澄ませたり、開拓することにつながる
・行動力・運動神経野のトレーニング
→トライ&エラーの繰り返し、成功への近道「行動と決断の繰り返し」の勇気を培う
→表現・具体的行動に関して美術やものづくりの分野における正しい自分の使い方を身につける
・美術、その先の新たな可能性へ
→デッサンからすべてのクリエイティブな開発へつながる部分がとても多い。
教わったことAをAやA''にして表すのでなく、
五感で自らが感じたことを自力で形にする力を養うことで
生きる意欲や、クリエイティブな力を創出することにつながる。
デッサンとその意義について、まとめたものがあまりに世の中に少ないと思ったので自分で草稿を書いてみました。まだ構想の段階で公開するのもお恥ずかしいですが。
デッサンが大事、ということがなんとなくわかっていながら、あるいは全然わかっていなくても、どこかで自分のデッサン力が引っ掛かっていること、多いですよね。なんでデッサンするんですか、という質問は、美大を目指す学生もときにぶちあたる壁のようです。
学校の先生も、あまりこの辺を言葉にして教えていないように思います。
(デッサンの時間と言いながら鉛筆とねりゴムと画用紙とモチーフと時間を与えて、ほったらかし!)
わたしはデッサンのうまい人とうまくない人が出るのは才能の問題とは考えません。才能の問題となる部分は脳の未開拓や欠損、循環の障害などがある場合だろうと思います。それらも補助する工夫や方法を編み出すことで、カバーできますし、根本的に指導者の助言ひとつで伸びるものが伸びたり滞ったりするのが教育の怖さであり面白さと思います。
注意事項:デッサンがのってくると、真冬でもシャツ一枚で過ごせる方がいるほどです(実話)はっきり言ってスポーツみたいなもんです。座ってるだけで労を惜しみ体を使うことを嫌い何もしない人には絵は描けません。楽をしたいなら趣味と言っておけば指導者はあきらめて何も言わなくなりますが可能性もひどく縮小します。趣味に命を懸ける方は別ですが。
またハングリー精神にあこがれていても、栄養・水分不足には十分気を付けましょう。デッサンの修行中に倒れた人もいます(実話。つーか自分。)悪いものを食べていると、絵も悪くなってきます。飯よりかくことが好きでも、バランスの良いご飯をきちんと食べましょう。
個人的体験を少し書かせていただくと、私はデッサンにおける
三次元(現実、対象)→二次元(画用紙上)の翻訳につまづいてました。原因は、眼鏡が必要なほどだったのにあまり使ってなかったことで見ることに確信が持てなかったのと、私の自分自身に対する罪悪感が障害となっていたのでした。絵ははっきり言って、うそです。だって、紙って二次元だし、そこに3次元を表すなんて、考えてみればむちゃくちゃなこと。古典的な日本画の手法や漫画などなら二次元を展開し続けることで道が開ける場合がありますし、わたしは簡単な漫画的絵はかけましたが、西洋画法のデッサンはかなり高度なだましです。
もしかしたらわたしは日本的な感覚の持ち主だったといえるのかもしれませんが。
西洋画法の絵画技術に、魅力を感じていたのに抵抗感が強かったのです。
なので、肝心なところで強気になれませんでした。
心の弱さというか押しの弱さも一役買っています。
自分のいったん定めたはずのものを、根本から疑ってしまう(ぐらついてしまう、信じられない)心の癖が、絵画を成り立たせなくしていたのも事実です。それが病的であろうとなかろうと。。。
だから、指導者の教授は、私に彫刻でのデッサン(摸刻)をさせたときにうまくいったことで、ある手ごたえを感じたらしいです。
3次元→3次元ならうまくいくんだ!と。
私はそれをヒントに、自分の絵画方法を少し修正してみました。
絵は好きだし、続けたかったので。
一つの処方箋は、無理やりにでも自分を信じきること。描いている支持体が二次元であるという思考上の誘惑を、いったん忘れる集中力の頂点へ自分を持っていくこと。これのコツは、かいてる時に、観察8割、描くの2割くらいで進めることです。一気に仕上げるときは割とうまくいきます。体力が至らないと、失敗します。途中で邪魔が入ったりすると、くじけやすいです。
これを継続できればまっとうなデッサンもできるかもしれない。
でも体力と強じんな精神力がないと続きません。
もう一つの処方箋は、二次元→二次元とすることです。
立体を平面に立体的に再現する方法は、基本的に二つしかないといいます。
遠近法と、写真(機械を使って落とし込む)です。
この後者、写真を利用してみることにしたのです。
絵と写真の双方のしくみの理解がないと、写真を使うことは、多くのミスをもたらします。実際私もたくさん失敗しています。写真のトレース、と言ったりすると簡単そうですが、それで絵的によいかどうか、とか生きた線が描けるかどうかということになると、ほとんどの場合難しいです。みんな、「写真」を描いてしまうからです。
コツは、写真に入り込んで読み込むことで、目の前にそれがあるような段階まで自分を持って行き、一定以上まで来たところで現実の絵画技術とつなげて、描き出すこと。
写真に、とことんだまされることをしてみたという感じ。脱魂みたいな感じ。自分の立ち位置を忘れられるだけ忘れてしまった感じ。でも絵画的なつじつまは保っている。それはそれで結構な労力です。もしかしたらだますより難しかったかもしれない(汗)これも途中で邪魔が入ると危うくなります。良いところは、だます感覚が薄れる。機械に肩代わりしてもらうので罪悪感と対峙しなくて済みます。線の表現に集中できる。でも、かわりに、ショートカットしているような罪悪感というか、自分の力で自分を立たせていないような不全感は残ります。しかし、義肢と考えれば仕方ないかもしれません。
子供のころのクロッキーや絵やデッサンで、私は自分がもっと自分を信じて描けたのを感じていました。そこに立ち戻りたくて、その幸せ感を忘れられなくて、絵を進路に選び続けてきたようなものです。
対象の観察中に、対人不安におびえることもなければ、自動思考や妄想に邪魔され悩まされることもありませんでした。自己否定から、観察そのものや描く自体にブレーキがかかることもありませんでした。
今も、修行の最中です。
たとえば脳の病気で、回復が不可能かもしれなくても、子供のころ、あるいは学生時代の一時、たどり着いた幸せな絵の描き方をもう一度体験したい。というか思い出したい。そこを起点に、様々な可能性が呼び起こせるはずなのです。という一念で。馬鹿の一念ですが、そこら辺の探求が、私のいまも一番したいことであり今まで一番したいことであったのです。(だから、入院したのも、不幸じゃなくて、したいことであったのです)
私は子供のころ、デッサンの中に真実とつながる地点を見ていました。
大人になって、それは嘘だ、という幻聴的な言い回しが生じ、自分の考えと混ざって、嘘をつくことが絵には必要、という考えが生まれてしまったのかもしれない。それは正しくとも言葉のあやなのです。それで罪悪感を感じて、ブレーキになってしまったとしたら、やはりそれは思い込みや病気のなせる業といえるかもしれません。いろいろ書きましたが、今考えるとそんなところに結論が落ち着きます。
2011/11/16
シャープペンシルを変えてみた。
でも、あまりこだわっていなくて、今までのも使っている。新しいのがいつの間にか、バッグのメモ用に格下げ(?)されてることもある。
何本か具合のいいのがあると精神的に落ち着く、という感じであって、
この一本がないと仕事が始まらない、というタイプの人間じゃないのかもしれない。
結局、何を使っても、重要なのはその一本を選んだというところではなくて、
心身のコンディションが出来を左右することが多いからなのです。
コンディションには様々ある。
ゴルフなどと一緒なのかな。
時間的な制約、
お天気、
体調、(ご飯のおいしさにはじまる感覚の冴えとか、風邪気味、とか、精神の波の調子とか)
体の動き、(運動神経の冴え)
集中力の発揮の具合、
事前準備ができているかどうか(取材とかイメージトレーニングとか)
思い出し力(過去の集大成の技術がその一点にくるかどうか)
狙いの理解と集中(その作品で何を伝えるかの把握がどれほどできてるか)
上げ始めたら、一冊本ができてしまいそう。
我慢のゴルフ、という言葉をある方からいただいたことがあります。
いつかばきゅーんととびぬけてホールインワンするイメージを抱きながら、
目の前の具体的な一つ一つを丁寧にかさねていくこと。
私のやりたいことを、フォーカスしてみると、NPO的な?方向性があるような気がほんのりするのですが、もうちょっとはっきりするまで、掘り進んでみたい。
作品の展開に関しても、もうちょっと、掘り返してみたい。
見えてくるものがありますように。
もちろんお仕事は、これまで以上に丁寧にやらせていただきますね。
お待ちしています。
2011/11/16
2008年ごろから、時々、うちの両親とか父の仲間が菜種を作って、
搾って、油にしています。
蓼科の陶芸工房「蓼科クラフトヴィレッジ」で800円で販売しています。
品切れのことが多く申し訳ないのですが、
今年もまた、搾れましたので、私の自作のラベルを貼り付けて、行ってらっしゃい〜
アーモンドのような香りがする年もあれば、
くせのない年もあり・・・
休耕田を利用して、お花を眺め、
愛情をこめて一生懸命作っているのですが、
ばらつきがあってすみません。
今年は菜種っぽい香りが濃厚な仕上がりです。
父が種をまき、母が夏を迎える暑い時期の早朝に取り入れをしました。
とうみにかけて殻を吹き飛ばし、美麻村で絞ってもらっています。
ラベルデザインのリニューアルは、また次のチャンスに、ということになりました。
2011/11/12
祖父を描いた絵を祖父母宅の年賀状にする予定だったのですが、
祖父の反対により、描き直しとなりましたので、あらためて笠取峠の頂上から浅間山を望む図にしてみました。こんどはOK出ました。
年賀状って、目上の方にも出すし、自分の対人における精神状態の反映でもあるんですよね。客観性がなければそれなりになるし、かしこまっていればそういう風になるし。自分自身の登場が礼を失する、という先達のご意見にはひとつ勉強になったといいますか、人生経験の違いを感じたといいますか。同じ人間のもてる感覚としてある種、納得するところもありました。こういうわきまえを持っている方って、ほんと少なくなっているんじゃないかって思いました。いや、じぶんが持っていないだけかな?考えされられます。
そういえばよく、他人の観点から眺めると、ということを私はやるのですが、
そこが私の長所であり短所、かつ脆弱なところでもあります。
だって、他人の立場に立ったまま自分のとこに戻れなくなってしまう人間ですから・・・あぶないしこわいですよね。モデルにする人をまちがえるとたいへんですし。
ポジションを固めたほうがいい、とある方に助言されたことはそこらへんで、
自分の守るべき範囲をきっちり定めないと、結局流されて何もなくなりますし対人関係にもひびが入りますよ、という忠告なのだと思います。
じぶんでも心に重りをつけて、とイメージしたりするのですが、すぐふわふわしてしまいます。自分の作品の評価に関してさえ、自分の立場を見失いがちになったりします。そこが崩れると、作家としてはやっていけないですよね。
ほんとうはどうしたらいいのか、わかりません。少ない人間だけの環境に身を置いて、静かに暮らすべきなのかもしれません。
ある方に好評を博した作品も、ほかのある方にとっては何の意味もないことがあります。
幻想的な作品しかり、写実的な作品しかり、
また、作品としていい、というのと、イラストレーションとして使用する媒体によりいい、というのとの違いもあります。
そういうさまざまに翻弄されて、自分を見失いがちになる、
その危ういところに自分は立っている気がしてなりません。
自分からやること、そのなかからしか答えは見いだせないのかもしれません。
言われなくてもすすんでやりたいこと、
あと何年生きられるかわかりませんが、寿命がくるまでは少しずつ衰えながらも自発的に体を動かせるはずなのですから、しかも平均まではあと40年くらいはある。その体を使ってやりたいこと、
考えると生きてゆくことがわくわくすること、
そんなポジションに照準を合わせることを、、まずはその地点を明確にして未来を思い描くこと、難しいですがそこからはじめたいと思っています。
12年前、大学を中退したとき、私は何のビジョンも持てませんでした。
しがみつくものがほしかったために次なる進路へ進みましたが、それは私のいまの責任感のなさや人間的な問題点と密接に結びついている気がします。
根本へ戻りたいために、絵をかき、文を書き、自己分析にのめり、どうにか歩いてきましたが、またここで根本に戻ることを意識する段階に来ています。
自分の使命と感じていることを。
自分の生きている理由として、人類に貢献したかったことが、本当はなんだったのかを。
うまれたとき、まず最初に感じたこと。
生まれてこの方、どんなことに心を動かされてきたか。
重い記憶のふたを、えいやっとずり動かしながら、
もういちど自分の生きる意味にフォーカス。
すべての人に意味は、あるんです。思い出しにくいだけで。
たぶんすぐれた占い師などは、それが見えるんだろうな。
ちょっと隠遁して考えてきたい気分です(笑)
2011/11/06
毎年、両親の年賀状に使う絵を描かせてもらっているのですが、
一昨年から、母方の祖父母宅にも頼まれて、オリジナルのものを作らせていただいています。
両親を描いた絵は、ホームページの「内村の里・点景」にまとめてありますので、ご興味の方はご覧ください。
祖父母宅のは、牛だったりねこやなぎだったり、うさぎだったり、生物的なものが多かったので、あえてまとめずにおりましたが、来年の絵はついにおじいちゃんが登場することになりました。
軽トラの上で、柿をとる祖父。93歳。
これに色を付けて、文字と住所を相談して入れて、年賀状にする予定です。
思えばPCがあるから、こんなことが可能になった。
PCを作った人に、感謝。それを広めた人、私に使い方を教えてくれた人にも。
PCを買えるお金をあたえていただいた方々にも、感謝。
私に絵を教えてくださった方にも。絵を描ける時間を与えてくれている周囲の方々にも。
画材や環境にも。
感謝の思いで日々過ごせることの幸せを、最近ことに痛感しています。
私の絵のいくつかは自分の研究目的とか、ありがたいお金のために、などと言っていることもありますが、ほんとうはほとんどが純粋な「ありがとう」、の代弁かもしれません。
生きていることに感謝。