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2012/04/03
一日一枚万年筆シリーズより。
チェコの街並みです。
日本の繁華街ってすごく苦手な場所が多いけれど、
探せばこんな雰囲気のところがあるかもしれないですね。
ヨーロッパ風とマネした感じじゃなくて、日本らしい下町風情とか、古いものと新しいものの同居する風景を描いてみたいです。
マネした感じと日本独自のものがせめぎ合ってるってのもある意味面白いかもしれません。
美しい町の落ち着いた商店街って、描いてて、自然の風景を描いてるような感覚にとらわれます。
美しさって、自然とどこかで共鳴するものがあるのでしょうか。
日本の、新しくできた街がどうも、苦手です。
チェーン店が並び、大きな道路がある。どこも同じような街並み。
一貫していそうで、その要素に美しさとか五感にやさしい暮らしやすさがない気がしてなりません。
2012/04/03
こんにちは。イラストレーターの山本薫です。
来年の干支を描こうと思って、
蛇のサイトにアクセスしたはいいのですが、
見てたら途中で気持ち悪くなっちゃって。
ヘロヘロになりながら描いたら、こんな弱そうな蛇になってしまいました。
可愛いと言って頂けたら良いのですが・・・
元気のあるときに再チャレンジを試みます。
2012/04/03
タイトル通りの、一日一枚万年筆シリーズを、
この3月位から始めました。
ブログ「快・画・手・帳」
http://ameblo.jp/kaigatetyou/
にて毎晩更新してゆきますので、どうぞお楽しみにご覧下さい。
読者登録、とかメッセージなどいただければとても嬉しいです。
今回こちらには、そのうちのひとつをアップしました。
相方に贈るなら、日常の疲れの見える時などに、
こんな花束を無造作にまとめて食卓やベッドに置いておいたり、したいな、なんて・・・
さらにこのドローイングは別の作品に化ける予定です。
お楽しみに。
それでは、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
山本薫
2012/03/17
線画のイラストレーター山本薫です。
柄のある花瓶を描きました。
ちょっとゴージャスにするなら芍薬を合わせて、
手前で猪鍋でも囲んだなら、最強(やりすぎ?笑)。
ところで、最近ブログを別に始めています。
「快・画・手・帳」というタイトルをつけて、
一日一枚の万年筆画のアップを中心に、展開しています。
http://ameblo.jp/kaigatetyou/
一日一枚は、日によって気合の入る日とめちゃくちゃ抜けてる日とさまざまですが
私自身コラムと共に楽しみながら続けていますので、ぜひご覧ください。
先日、ある出版社にファイル送付の可否を電話で確認したら、
もともとその出版社のラインナップのファンだったのですが、
編集部の電話の受け答えがものすごく感じがよくて、気持ちがよくなりました。
お忙しいなか対応してくださった方々に感謝しております。
明日も気持ちの良い一日になるかな?
皆様にとっても良い日曜でありますように。
2012/03/03
温泉がてら相方と小布施方面へドライブしました。
気になった風景をいくつか。
今日はカメラを持っていかなくて、記録ができなかったです。
☆キリンの花屋
屋根ほどの高さをした大きなキリンの親子のリアルなオブジェが、
目を引く店があった。
足元にいくつか売り物の花苗があることから、ようやく園芸品店らしいとわかる控えめさもある。
小さな木地の看板が、ドアの上にあったが、名前は読み取れないうちに過ぎてしまった。キリンの表面のつやつやしたサッカーボールのような凸凹が、妙に目に焼き付いた。
こんどは写真を撮らせてもらおう。
☆高い木とお墓のある古い家
杉のようなのが5.6本だけ、しかも上の方だけ残してあとは禿げたように枝をはらってあり、高さは、5メートル以上はあろうかと思える。周囲は平らな畑ばかりなので不思議な光景であった。心無しか冗長してしまったような佇まいである。
近づくと、たった一つのお墓の周囲に植えられたものである事がわかる。
手前に家がある。木も高ければ家も古いようで、立派な日本庭園があって、少し門らしきものもあって、車が一台、大して感動もなさそうに停めてあった。
☆クリスマスローズ
八重のもの、一重のもの、おお振りのもの、小さくいくつも咲くもの、
白、ピンク、ロゼ、銀鼠、緑、黄、そして葉っぱも様々。
原種を交配することで限りなく多様な品種が生まれる。
フローラルガーデンの温室には、そんないくつかが所狭しと並べられていて、私は電話で母と相談してひと株買うことにした。
うつむいて咲くのは、雄しべや雌しべを雪から守るためだとか。
茎や花質は柔らかくて草っぽくてデリケート。花つきに、いかにも花らしい名の通りローズのような華やかさを感じるものもあれば、花というよりこれは萼の一部なんじゃないかと思えるようなのもある。
夏は生育が止まるので、水やりは控えめに。冬は鉢植えならば室内に。植え替えは10月〜1月。
その品種の多さに、とりつかれてしまう人もいるのだろう。
私は八重咲きが好き、相方は一重咲きが好き。
2012/03/01
こんなペン画を描いていて、素材の質感まで表現しようと執拗になればなるほど、
ペン画の勢いから離れてしまうのか、
美大受験の失敗のようなデッサンにはなるけれども、
それ以上でもそれ以下でもない。(お恥ずかしい限りですが)
さておき
あの感じの書き込みとか仕上がりというのは独特のもので、
ふしぎと美大受験関連以外の分野で見たことがないテイストだと思うのだがどうでしょう?
書籍のイラストでも、あそこまで写実になってしまうと、引く手がないのかな。
写真なみの描写力を、写真というものがある現在であえて必要とされないことの証かもしれないけれど。
デッサンの途上の絵にはイラストとしての需要があるけれども、
デッサンとして完結したものはうますぎる、ということでしょうか。
学生時代、あれになりなさいと言われてあこがれても、
どうしても心のブレーキからなれなかった自分。
もっと描き込みなさい、もっと悪いやつになっていいんだ、
そんな指導を幾度も受けた。
でも無理やり進むと、必ず失敗した。完成した作品が、ほとんどなかった。
ある夜中に、スケッチブックに自画像を描いた。シャープペンシルで。
すべての線が、重なっていない、クロスハッチングというか面を表現する方向への線の連続だけで、顔の微妙な凸凹を表現した。そのとき、何かがわかった気がした。
それから病気がひどくなって、だいぶ絵から遠のいた暮らしもしたけれど、
あのたどり着いたイメージだけは忘れなかった。
イラストを描いています、というと明るいポップなイメージを抱く方が多い気がする。
実際を見せると、デッサンですね、という人もいるし、学生ならではの気概みたいなものを感じる方もいたようだし、もちろんこれはこれでイラストと捉えてくださる方も多いのだが、イラストレーターというより絵描きさんですね、と鋭く突っ込んでくださった方もいる。
ペンで描くことを始めたのは、あのシャープペンシルの夜を意識したというわけではなくて、たまたま相方が万年筆を使っていて、一緒に使ってみたくて購入したのがきっかけだったけれど、
線を大事にすること、っていうのはどこかでずっと持っていたのかもしれない。
だから、美大受験のデッサンにあたって、線というものの存在を疑え、という方向性に馴染めなかったのかな。
私は線を描くとき、
一本で全て表して終わる、その繰り返しで絵を作っている気がします。
2012/02/22
最近ペンでひたすら描いています。
これが何かの力につながるか、どうか、わからないけれど
楽しくて仕方ないのかもしれない、いつになく意欲が止まらないのです。
一日一枚、ツイッターにアップしていますので、続く限りはやってみたいと思います。
仕上がりの善し悪しに一喜一憂するつらさについて、信頼する医師に話したところ、
大事なことですもんね、と同意はされたものの、
それで生きるか死ぬかまで考えますというくだりには苦笑されてしまいました。
私の作品はひとつひとつ考え抜いて緻密に仕上げるので、そういうクオリティを維持しながら量産というのはスタイルを決めてしまって大量生産するイラストとは違って
ちょっと大変だと思いますよ、と言われました。
ささっと書くものと、緻密に仕上げるものとあることについて問われ、
その時の体力と時間の余りでできる最大限を計算していると、そうなってしまうと思い至りました。
時間の縛りを気にせず、あすに持ち越すつもりでいつか大作とか傑作を仕上げてみたいものだと思います。
昨日、ホームページを一新して更新しました。
http://www.geocities.jp/kaorisi_atelier/
だいぶ見やすくなったと思います。
まだ余計なものがちらほらしてはいますが・・
どうぞご覧ください。
ペン画はフランス、リヨン駅。
いつか訪れたい場所です。
2012/02/19
学生時代に、デッサンをしていて、「面で捉えろ」と盛んに言われたことがある。
その後日本画の歴史を大学で学んだとき、線の重要性について示唆され、
社会に出てからは余計に、流行りもあろうけれど、線ということがとりざたされるような気がする。
私はずっと、面と線、どっちに進むべきか悩んできた。
面を意識して描くようになって、ある一点を越えた時から、
私の中では面と線の境目がよくわからなくなった。
そう、それは言語であり、実際描くのは身体なのかもしれない。
当時シャープペンで描いた線のみによる面表現の自画像が、金字塔となるかどうか。
私の絵は時々退化したり、進んだりするけれど、それはたぶんその不安定さを克服するのが私の命題であるからだろう、絵についてだけじゃなくて、日常生活のさまざまなことすべてにおいて。コミュニケーションだって。
心のコントロールは、私の一生の課題なのかも知れない。
線と面を考えることが、だいぶ楽しくなってくるのがペンで描くことである。
私はそのどちらに進むかわからないギリギリのラインで、そのつど選択や試行錯誤を繰り返して、言語を超えた境地にたどり着こうとしているような気がする。
日常的にはたどり着けないから、毎度ノイローゼみたいな不安感を抱えながらもワクワクもして性懲りもなく練習に向かう。
そのうち、不安から解放されたら、大きな時間のかかるしごともできるだろうか。
わたしの線の独特のゆらぎは、そのどちらにも進めないでいる、
優柔不断で柔らかすぎる心そのものの反映のような気がする。
もしかしたら、それ自体も評価の対象となることがあるかもしれないけれど。
2012/02/01
このところイラストや絵画の公募を見てもちっとも燃えないのは、
自分が変化したせいか社会が変化したせいか賞金が足りないのかバカ高い参加費(を求めざるを得ない文化)がバカバカしいのかそのどれでもないのかどれでもあるのか、と思っていたけれど、
むろん社会情勢の影響もあろうけれど、
公募情報を見たときに、若いときなら何らかのチャンス、と思っていたものが、今はその母体の理念とか、意義なんかに透けて見える意図をやっとわかるようになって、自分のようなものが参加する意味があると思えたら参加する、というスタンスに変わっているのだと気づいた。
華やかなステージは素敵だけれど、そのあとそこにいたものがどういう人生をじっさいに歩んでいくか、そこにいなかったものがどういう人生を歩んでいくか、審査員はどれほどの人でその後どうなるか、観客席の人はどうなっていくか、のほうが、興味を持てることになっている。
私は運良くKFSの学内コンテストで二回も賞と仕事を頂いたし、
社会に自分を放り出したあとすぐに、絵で賞金をいただく機会に恵まれた。
ファインアートの分野から足を踏み外して苦しんでいた自分にとって、
それは神様のご褒美と勇気づけだったのかもしれない、と今は思う。
いま、自分の作品を絵画として扱ってくださるギャラリーが二つあって、
折があれば仕事を承れる体制も多少は整っている。
10年前の自分が、なりたいなあと思っていた姿と、ぴったりではなくても、少しは似ている感じになっている。
それでいながら、いま、(今に始まった話ではないかもしれないけれど)
心の中ではいつも、これでいいのか?これでいいのか?と不安を抱えていて、これからの展開をどうしていったらいいのか、考えあぐねている。
イメージの枯渇のような状況(あるいはそれ自体、妄想や懸念かもしれない)になりながら、
鉱脈をたづねて、掘ったり休んだり。あまり活動的とは言えない。
線が心を「すべる」モチーフの共通点を探ったり、苦手なことを発見したり、ようやく何年もこんなことを繰り返して、うっすらととっかかりの輪郭が見えたような、いやまだまだ・・・なような。
辛抱強くお付き合いいただいている皆様、本当にありがとうございます。
そんななか、ひとつ面白い公募の誕生を目にしました。
「<a href="http://www.tosho-sekkei.gr.jp/tokyosouga/" target="_blank">東京装画賞</a>」
インスピレーションを言語に求めるやり方は、古来からの常套といいますが。
私は昔から本を読むのが好きで、文を書くのも好きだった。
本という存在のそのものが好き。電子書籍でなく紙の本が好き。
占い師に、あなたは本を書くとものすごく人気が出るでしょう、と言われてから、
いつか本に関わりたいなあとおもいながら、
病気をしてから、文章の構成や組立など思考を要する作業にひどく障害が残ってしまって、なかなか自分でうまく組み立てられないし、読むことも難しくなってしまっているのだけれど。
読みたい書きたい意欲だけはある。
同じ意欲を持った作家の芸術を汲み取れるかどうか、わからないけれど、
そして自分のようなちょっとかたわな創作活動をする者がどれほどの絵をかけるかわからないけれど、可能ならば挑戦してみたいと思えた公募だった。
そうでなくても、文学作品をモチーフに装画(もしくは絵)を描くというアプローチにはどことなく肌がしっくりするというか惹かれるものがある。
問題となるのが、画像加工ソフトの扱い。
イラストレーターがうまく使えないんです。
もし、今回の公募にあたり、私の装画とコラボしてデザインワークをしてみたい、という奇特な方がおられましたら、ぜひご連絡ください。
賞金が取れたら、山分けしましょう(とれたらね)(笑)
2012/01/27
ジャガイモの季節は、たぶん冬でなく初夏なのだと思う。
理由は花が見られて、美味しい子ジャガイモがたくさんとれるから。
だけど、じゃがいもの絵を描こうと思うと、どうしても、土の中の塊茎のことに思いを馳せてしまう。
土の中のいもはやがて冬の保存食となる。いもの姿は、春を待つ信州の長い冬をじっと耐える気持ちと重なるものがあって、わたしが描くと新ジャガでもなんでも鉱物のようになってしまう。
むかし石のシリーズを熱心に描いていた時期があるが、そこと繋がる何かがあるのかもしれない。
初夏に、五角形の造形的な花を咲かせるジャガイモの姿を畑でぼおっと眺めていたら、
宇宙に星がきらめくのと同じようなものだなあ、と思った。
限りない時空を見上げて、孤独で、寒くて、夢のように輝く、それは妄想か幻想か想像かわからないけれど、果てしない浪漫のような、哲学のような、すうっと吸い込まれるようなイメージを感じた。
そのとき土の中のいもは、星の中心というか、地球の底、いや宇宙の底のような場所で、根源的な営みをしているのではないかと思った。
言葉で多く語れない不器用な私は、絵でものを言うのが常套手段で。そうしてできたのが、2008年の制作である「塊茎」です。
本当は、「塊茎とほしのはな」と名付けようと思ったのですが、
どうしてもひらがながいいとおもっていたのにひらがなにするとなんだかさいきん流行りのつまらないタイトルみたいな気がしてしまって、縮めたのです。副題か何かだと思っていただければ幸いです。
ここには、そのもと絵となるドローイングを掲載しました。
本作品はもうなんども展示したりして、知っている方も持っていてくださる方も多いのですが、ご興味のかたはHPを探してみてください。