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2011/08/28
近頃、家族とちょっと条約締結をして、定期的な金額の納付と生活や食事などの自立を試してみています。
食事作りって、やってないといろんな感覚が鈍っていくもので、たとえば食材の扱いの基本事項とか、火加減の微妙なところとか、いためる順番とか、味付けのカンとか、だいぶなまってしまってまして。体調を崩す前に、茨城で一人暮らしをしていたのですが、その頃培ったものがいくらか役立っている感じなのが幸い。
相方のように、魚をおろして〆て押寿司を作っちゃうってとこまでは到底及ばないような気がするけど・・・
料理の基本が、できてるようなそうでないような、いや、本を片手に、分量をはかるならいいけど、基本的な体系がなってないとこが心もとない。
最近のツイートに、夕ご飯のメニューが頻繁に飛び出すようになりました。
近頃は畑でなすが大量に取れるものだから、必ず茄子を消費しないといけない我が家。
で、ご飯作りは茄子の選別から始まるのです。籠とかビニル袋に保管しといた中から、丸茄子にしようか、長茄子にしようか、悩んで。たいてい鉄火なすか蒸しなすか茹で冷しか焼きなすあたりになるんだけれど、たまにはオリーブ油でただ焼いてポン酢でいただいたり、アンチョビソースを作ってみたり。先日茹で茄子に生姜と茗荷を載せて出したら、家族に好評だった。ひき肉とあわせて柚子胡椒風味のショートパスタを作ったら、相方においしいといってもらえた。
にがうりも最近大量に採れます。ときには一個で800グラムもあるものも。
にがうりの絵でデビューした私だけれど、ビジュアルではものすごく思い入れがあるのに、調理法にはあまりこだわってません。
焼き海苔をまぶしたお浸しや、ゴーヤーチャンプルーなどで、あとは母がお得意の佃煮を作るものだから、その手伝いをしたり。
揚げるのもいいですよね。あまりやらないけれど好き。
にがうりは、出来具合で苦味ややわらかさがかわるので、本当は野菜の顔を見て調理したいところです。ふくよかに育ったものは、苦味もあまりないので、塩漬けにしてもいいかと思っちゃう。これ、佃煮にするとふよふよしてあまりよろしくないんですよ。
そのあたりで、おかずがきまってきたらバランスが取れるように、メインとかたんぱく質系をてきとうにあわせて、(豆腐とか、冷凍庫の下処理済お魚とか、納豆とか、ヨーグルトとか・・・)
ご飯と牛乳でいただきますってなるのがたいてい自宅の食事。
この脳の使い方で生きていると、メインディッシュにごちそうを作るという思考が抜けていってしまう気がします。何を食べるかってことに興味が向かないと言おうか、あるものを消費するだけといおうか。どっちかというと副菜に趣向を凝らしたり工夫の仕方が偏ってしまう感じ。野菜、乳製品、豆製品、などをそのまま食うのが中心、肉や魚の調理がたりないというか。
前々から思っていたんですが、私はとくに魚の扱いの蓄積がほとんどない。
アジの三枚おろしはむかしぜんごをとるとか何とか言って家庭科でやったけれど、あとほかに何も知らない。イカの下処理すら知らなかった。下手をすると、魚買ってきたら内臓もとらずに丸焼きにしてしまいそうな勢い(笑)
小あじの素揚げをするときには手でえらからちょっと剥ぐと内臓までとれる、ということもしらなかった。
いつか、何だか思い立って鯛の潮汁を作ったことがあったけれど、鯛を一匹買ってきて、本を見ながら切り分けたんです。そのときは何とかなったけれど、あとで相方に聞くと、鯛は内臓をうまく取らないと全体が生臭くなる難しい魚だから、ということで、知らぬが仏ってこのことですね。
母親が折に触れて、料理教室に通うことをすすめてくれたんだけれど、私は行きたくなかった。料理を教わりながら、複雑な人間関係とコミュニケーションをこなすほうが大変だと思ったからで、たぶん、私の中でそれほどの必要性を感じてなかったんだと思う。素材の扱いを知っていれば、応用はできるだろうし、いくらでも本が読めてそのとおりにできるなら、必要ないと思ったのかもしれない、それに、身近に、信頼してよいと思える料理人がいなかったのもある。母から教わる料理は習いたくても、どこか他の土地で勉強したゆかりのない方の、関連性のわからないエッセンスを、自分の料理に混ぜたくなかったという偏狭な気持ちがあった。
料理の、いわば科学反応的な内容というか、根本のメカニズムには興味があるけれど、調理味付けしておいしく食べることにはあまり興味がむかない、ある種の生きることとやや反する志向が私の中にあるのも、一役買っているのかもしれない。わからないけど・・・
ここへきて、料理って、私が思っていた料理のおもしろさとちょっと違う角度の方向性が必要なものなんだ、と思えてきて。なんというか、仕事みたいな方向性ですね。食べるものを作るって事。当たり前なんだけれど、料理ってちょっとした労働なんですよね。実のあること。私は、多分これまで、料理って学術だと思ってたとこがありますね。私の中ではこれも実のあることなんですけどね。自分の個人的な研究のための、素材に過ぎないと思ってたようなとこあります。
どっちか選ぶ必要もないんだろうけど、やはり家族のためにおいしいものを作りたいと思ったら、労働も楽しくなりますよね。自分のためにおいしいものを作りたいと思うには、なかなか難しいものがありますけれど。
2011/08/26
この時期は年賀状の依頼が入るのですが、今年はダウンロード販売の話など。
暑い時期に、年末の気分を思い描くのって、結構難しいんですよね。
根が、周囲の環境に左右されやすいたちなものだから、自分のコンディションというか、
気持ちの持ち上げ方というか、集中の度合いには気を配らないといけないのです。
たとえば写真を見て書くときなど、実物を見て書くときと同じかそれ以上のライブ感が持てるように、ちょっと病的なほど入り込みます。
以前、ひどく体調を崩して精神科に入院したときに、主治医の先生が私の写真と絵を見比べて驚きました。写真はまったく絵にならないのに、抽出されたものを見ると構図になってるところがすごいですね、とか。
私の感覚としては、見えているものをかいてるだけなんですけど、他の人が見るその写真と、私の見ているその写真の使いようというのがずいぶん違うみたいです。わたしが逆に驚きました。あー、私って、常識と思ってたことがまったく常識はずれのとんちんかんだったんだなーとやや落ち込んだほどです。
人の世界の認識方法って、カメラのレンズとも違うし、なかなかこれと言語化や表現がしづらいもので、デッサンはそれを冷徹な3次元認識に近づける方法なんだろうけれど、
私まだデッサンの目的とするところと、表現が目指すものとどう自分の中で折り合いをつけたらよいかわからないでいるんです。というか、描いてしまえばそれが現時点での答えなんだけれど、言語で整理しようとすると、あわや混沌の渦にのまれそうに。
どなたかクリアな説明をしてくださいませんかね。
掲出の作品は、辰です。(竜です)
以前に所属している団体で、辰年の年賀状の大量募集があったのですが
西洋の竜のデザインがやや不足気味という話がありました。
結局それには間に合わなかったけれど、
星の王子様の下へ愛するバラを運ぶような、素敵な竜がいてもいいじゃない。
ということで描いたデザインです。
皆様のもとへも、愛するものが届きますようにお祈りしています。
2011/08/11
今日の長野は昨日、一昨日よりやや過ごしやすいです。
この暑いのに紅茶をホットで飲むのは気が知れない方もいらっしゃるだろうけれど、
相方の紅茶好きにつられて珈琲党から紅茶愛好家の仲間入りを果たしてしまった私は
きょうも汗だらだらしながら紅茶をホットで飲んでいます。
今日の紅茶は、普段飲み用のジャンナッツのダージリン。
ダージリンて、季節ごとに味の特色がかわるもので。
春摘みは爽やかで薄い色合いの緑茶を思わせるニュアンス、
夏摘みはしっかりしたボディに骨のある味わい。時にはマスカットのフレーバーを感じることも。
秋摘みはウッディ、枯葉のような趣の、落ち着いた味わい。
気候が如実に味わいに反映されるものだから、農園ごとの個性も際立つし、やはり年によって出来具合も微妙に違ったり。繊細な植物でありお茶なんですね。
ジャンナッツがどの季節のを使ってるかしらないけれど・・・
これはフランス製ニュアンスのブレンドといわれることも。わたしはまだ、国ごとのブレンドの傾向ってわからないけれど、わかる人にはわかるみたい。
おなじフランス製でも、エディアールと比べるとやや香りが薄く地に根を張るような穏やかさが感じられる。
相方も私も、ダージリンはともに秋摘みがお気に入り。もっとも、季節や体調や気分によって、飲みたいものってちょっとずつかわるものですけれど。
相方は、ダージリンの穏やかに感覚が開いてく感じをはじめウバ、スリランカ系の爽やかさが好きらしいし、
私はダージリンも好きだけれど、ニルギリのブロークンやアッサムの目覚めが無性にほしくなることもある。
相方が不眠系、私が過眠系、というのとかかわりがあるのかな、なんてひそかに話したりしてます。
東御市にある紅茶やさんいい紅茶ドットコムで扱う、ニルギリのカーゾン茶園産が好きでして、アレを飲むと脳味噌が目覚めると同時に清浄になる気がする。ネパールのミスティ・バレー茶園の紅茶もチョコレート系のニュアンスがなんともいえないですし。
先日、ちょっと東京まで出かける用事があって、紅茶専門店として有名なリーフルに寄ってきました。お値段は高めの紅茶を扱っているけれど、品質は確か。というより次元が違うというか。品数があれば無料でポットでたっぷり試飲させてくれるのがなんとも嬉しいお店です。
そこで、ネパールのグランセ(石楠花)茶園という畑でつくった紅茶に出会いました。
茶葉の状態の香りが、衝撃。何の抵抗もないのに華やかで、つい鼻の穴を広げて奥深くまで吸い込みたくなる。春摘みの、ウーロンハンドロール(ウーロン茶のように手で撚る)は香りをかいでるだけで美しさと幸せを感じました。
紅茶として淹れると、またちょっと違った趣き。けしてオーバーでなく、高原のすがすがしい空気そのもののような。
で、いま手元に春摘みと、秋摘みがあります。秋のほうは相方からのプレゼント。
気分がよくさらに良くなれそうなときだけを見計らって、あるいはちょっとすぐれないときにカンフル剤として。大事に大事に飲んでいます。
いつもそうなんだけれど、私は、おいしいものやいいものに触れると、アドレナリンが出るというか、自分だってこれに匹敵するくらいいいものを作らねば、とファイトが湧く性質なんです。生活の張りや変化というかしがみつくものが適度にないと退屈で(不安で?)死にたくなるというか(笑)
環境の変化に過敏なとこ、ひょっとしたらダージリンと似てるんだろうか・・・
そのおかげでいろいろ遠回りもしてるんだろうし
歩くべきところをスキップもしてるんだろうしなさけないところもあるけれど、
謙虚な気持ちを忘れず、なるべく目の前のことに照準を合わせ集中しながら周囲のサポートに感謝しながら歩いてかないとねと心新たにする今日この頃でした。