揶白 (KF)

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揶白 (KF)

絵画

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    人間か人間じゃないか、と云う話はひとと昔した言及された事があります。第三者が居れば「自分が人間か人間じゃないかという話をいちいち考えるからややこしなくる。」と、言う人は必ず現れますし、お前は人間か、と言われるのをくちくち悩む時期もあります。詩からは逸脱したコメントすいません。

     


    考えるとすれば、何を考えないかと言うことで、宗教から民族を守るのかも知れない。そういうのって生きてる間、足の付く間に身につくことだからあんまり語られないです。
    インターネットがメール用だとは初めて知った。
    人間が宗教をつくっているんだから宗教は嘘だ…いヤ、本当に人間が作るのやろうか?
    玄こう様の認識は固いのだなと考えたりしてるわけですが、これって、想像力が書くとしたら答えたい気持ちです。関東の方はゼロ歳の時住んでましたが気が短いと言われてますが関西と比べるととても長いと思いますし、その分温かいと思います。裏で動ける気風と清貧のようなものがあるけどあつかましさがないです。
    馬鹿者は本当に居て心強いです、それが男女だと仲を決め込んで「私」を全て話したくなる。

    「人間何かを感じてるだけで良い」という躾が自分にはあって、大分悠長をこうして例えばしているのですが、何を考えないでいるかを大事に思ってます。人体実験などは、お前よ悪を抱えるのであれば今だ行け!って昔の人は思ったかも知れません、真っ暗ですがまだ希望が若し有ります。そう思うと今の方が絶望ですよね、や、怒っていて良いんですよ、絶望ってでも少なからず惹かれていて、悲しみとかの悪い状況じゃない。
    宗教と思想を混同した私は立ち眩みました。
    逆に何もないことってありがたいですよね、でも、何もないことは何もないんじゃなくて、何らか今だ形(つく)られていない、精神上、今だ哲学がみえない、花はそんな「無」の感覚です。

    え、人間ってそんな悪かったの。って言うのが、この詩にも伺えて、白い月がどこにあるのか中に探したりします。煙と添えてあって非常に美しい。その元で絶望だっいう噂をする。ペヤング ペヤング ペヤングと云って帰って行く「無常」の。その方向にいつもの常の、周りのおろおろしさを読みます。
    親を思って胸がきゅんとじわっと痛くなったりする暇がなかった。親を忘れるとそこに魔が入って来て、
    人の神は、佛が親だったり、母が親だったり、
    詩が親だったりするわけで、
    (人間は)少なからず夢を見るものです。親から一度捨てられる事はあっても、こちらには親を捨てる権利が無くて、自由はそんなに自由じゃない。なまえをたべたなまえ様には年上ながらに色々考え(感じ)て欲しいと思いました。


    私は音があるところ言語だと理解し思った、恋が始まりで、ノウボウ アキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカと云うのは、タラークで、何て言うか、言語に意味があるのではなく、意味に愛があってニュアンスで言語が伝えられたのが、音があるところ言語だと理解し思ったのが言語如来の空の起源。これが中々続かなくて。ソワカという、「です」は、古ではなく、古来の品を伺え美しいと思います。菩提を離れてペラペラ喋ると、
    「おお、坊や強なれや!わたしキャラもんや、…道頓堀にて。」でも密教って言っちゃいかんのですよね。真言は詩ではないけど、骨格ではある。何故なら、乳がどこから来たのかを私は思う、考えると云う事を単に思考ではなく、感受と云うのなら大した事だと思う。マントラが詩を超えて居て、我らを叩き落とすために「真言」の梵字(詩)が光る。故に周りの人がどうあれ愛(恋)の向こうに行けるんじゃないかと思う。学ぶことが一杯ある。

     

    読ませる相手が不明、もしくは居なかったりして、読みづらい詩を書くのかも知れません。ここでお詫びします。この自己療養とは、この場合この詩に限った言葉でして、自己完結、を普段から真ん中に置いてるわけではありません。もっと完結できるように取り組みたいのですが、ここでは後から読むと抜かした言葉が多く、失敗ばかりでした。言って頂けて嬉しいです。私も人間的な、にはこだわってまして、こうなったと思います。ご感想ありがとうございました。


    読ませる相手が不明、もしくは居なかったりして、読みづらい詩を書くのかも知れません。ここでお詫びします。この自己療養とは、この場合この詩に限った言葉でして、自己完結、を普段から真ん中に置いてるわけではありません。もっと完結できるように取り組みたいのですが、ここでは後から読むと抜かした言葉が多く、失敗ばかりでした。言って頂けて嬉しいです。私も人間的な、にはこだわってまして、こうなったと思います。ご感想ありがとうございました。

    確かに自由は奥に有って、しかし慎ましくしようというところに奥底が有る。今も大変楽しくお話しをさせて頂いています。

    縁を諦めたところに裂け目があって、亀裂がある。けど無駄に紡ぎたくはないがわからないところだ。裂け目があって、亀裂がある、そこに詩を想う。
    しかし、統失とは「教えれない」立場らしく。

    14年間のキス、に知性を感じます。圧迫されました。
    やるべき事が全然出来てなくて、しかしこれから埋めて行こうと云う希望を感じました。東京は、全く新しい希望。そんな事が出来るかいな、と思うような。意外な事が、感動が小さくあって、宇宙のどこかでも、新星が誕生しているような希望。が美しく、、映画ドラえもんの世界。でも「そういう優しさ」と「その思考」って折り合えるのか、心配。

    多少の愚かさが要ると思う。多少の愚かさとは、生命保険、ショップ店員の押し売り、など晴れの雨傘で、一見ではあまり白くないことだ。ひとの施す黒さなら少し考えれば受け入れれ、
    14年間のキスとは、要は先を見る目だと思います。

    あ…、お読み下さって頂けてたのですか。私が精神科に掛かっていますのは本当で、それ故言葉一つ誤り大変なものになっていた、という怖れが酷く、失敗しないようにしようと思っても、無理で、最近詩の歌い方がわかって、直ってます。
    大変参考になりました

    考える暇を時々感じられます。「俺に脳みそはひとつもないぞ。俺に脳みそは一つも無いぞ」と、或る詩人が言っていたのですが、自分の考えと思いを全て纏めて消化したのちに自分からぽろりと出てくる、声になるのは、初めて発散出来る言葉だと思います。そこで分かるのは相手の気持ちです。優しい詩だと、感じておるのですが。


    返信ありがとうございます。
    文と詩人が違うとは、他の云うことなので、私も本当にはわかりません。本当にわけのわからない事で、こまっているのですが無明と云うからにそれなりに良くない事が御座いました。言葉を見出した後は非常に安心で、更に無明がこういう意味なんだ、とかを強く噛み締めてます。
    ただ学を受ける事と詩人は違う、とは私の思うところで、何を云いますかというと、
    無意味(キャンパスと一体になること)と、時間を無にする事は全く異なる、これ私の詩の師が云って居り、
    すなわち「無心
    」は良い意味での孤独だと私の解釈ですが感心し、気遣う術として、そのテキスト主義が有るのだと思います。そこに仰る自由があるからです。
    流動することが日常とは皆言いませんよ。そう捉えるひとの方があまり居ないと思います。やはり私は躍動のイメージを致します。「死の淵で死の意味を忘れる」、私にとって良い話でした。

    「殺してやる」選んでる事がひとと同じで、それを否定して
    もっと書けると思います。
    、詩を理解してる時、少なからずその人は詩人です。何が詩って、日本語の性質がわからないと馴染みませんよね。「私は肩についてる幽霊とよく勘違いされる」と云う詩をよく書くのですが
    が、こうやって人と話せるこの時間を大切にしたいと思います。

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  • 黒昇天、

    2020/10/19

    あ、あなたは詩の父となつたのか、形骸的に精神を求めるこの私よ、お前の乳色のコスモスである

    黒游、黒游、黒游

    つまるところ、断じてこの檻から出ることを許さん。詩の父になったあなたがたであっても。

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  • 動画の咀嚼、アート


    「こうして仏陀は釈迦を許し、世間(よのな)から追い出したのである」

    エメラルドさんと云う詩人の方がいるが、
    一行一行が人々のものであり、一行一行は離れている。感じる行の言葉を軸に、自分の連想する事や思いを、応答するように綴る。とそれがロープになり、連絡網になり、詩が筏(いかだ)のようになり、川なのか海なのか、旅立てるように設計されてる。
    息をするように漕いで行く。
    文章が下手なのは最初だけ。笑われる時間は長いだろう。
    稼ぎ手(武力)と作り手(粘土等)は普段別だが、この場合は役割負担をしているのである。詩を理解してる時、その人は詩人なのである。

     

    「アート」

    アートはそれが思想であり顔がない。ブランド性がない。そう云ったものがない。


    梅ラボさんの作品とは、御本人の言葉である、これは死体らしい。
    死体とは何か?
    では、生物とは何か?

    モダン的な、即ち理想を一回作って、それをみんなで壊して分割し、作って行こうと云う、既存のものを突破するデザイン、詩についての「死」である。

    一コンピューターの能力が今まで見たこともないようなものをつくる。

    「パソコン」が制作の現場になった。
    パソコン上の空間が制作の現場になった。
    こういった無形のものから、プリント、即ち現在をする、そうして事物になる前の段階でパソコンで作っちゃおう、というわけである。絵に起こす為に、(「絵画」とは、単純に絵になる、とか、詩的だとか、神ががるとかそういう意味だと思ってる。)レイヤーを敷く、メディウムの事にレイヤーと言っているが、半紙を重ねて、平面的に働く。光を表現するのだ。
    アニメーションのキャラなどの顔は、あれは人間の顔から色々省略した線が見られる。髪はともかく、造形するとかいったものではなく、わたしたちの自然体が美しいと云えよう。)自分の内で塗り重ねたその圧力が光る西洋の油絵とは異なりつつ、「私が私になる」といった意味で他者から同意されるだろう。
    私の地元は大阪であるが、思想的に力まない事が善しとされ、観る人を見返す、「こうこうこういうことをする」「それをする」んじゃなくてあれも出来てこれも出来ると云うのが柱(はしら)である。
    それを裏切っているようで、非常に負い目がある。
    描いた少女を切って分裂させて、組み立てる。「パソコン」の怖ろしさを臨む。それがキメラである。キメラにせよ、学問は、あらゆる脅威から前向きに道徳へと昇華させる。人のアート性より信じたい所だ。

     

     

    身の回りで触るものが数年で変わってしまった。ペン、本、テスト、新聞紙、から携帯、プリンターなどのメディア自体を手にする機会が増えた。
    感受性とは、
    持ち運びの出来る画像、
    技術的な面の変化、
    それに対しての変化はおそれるにしろ、一般性を失うべからず。

    絵に印刷プリントをそのまま使用する、
    持ち運びの出来る画像、技術的な面の変化、新しい技法。
    私は自分の制作に印刷物を扱う事、使う事で、そういった意味のクオリティーを上げることで内面的に進みたかった。

     


    精神的になるという意味で肉体的な事柄の逃御がなされる。
    ギリシャの彫刻など、見ていたら所によっては受け入られたのかも知れない。例えばもし、神の声が聞こえて、みんなで一旦神の力を使って、穴の空いた頭蓋骨や、オーパーツ、近代にも伝わる軍人の埴輪、万能の力としてある、としたら二度と使えないはずで、その中にいる身として、楽しくしてるから、許されているのだ。
    服が、馴染む。「動きやすいけど、禅は究極、ホンモノの方が格好良かった。」この締めくくりで私たちは納得を力ずくで買うのである。真の肯定にはまだ遠いが、幕府の整頓された考えより、古来を含めているし、何より美術は誰でも理解しているのである。

    「パソコン上で」たとえあっても、実生活の態度に立ち向かいたい。

     

     

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  • 人と光の関係

    本をそんなに読めて居ないから、にわかさんだ。学問のタマシイならある。
    普段に詩人と名乗るのは、知識の完成に於いて詩を含み、詩の最上級を手にした勲章であるから、詩人とば人を黙らせ、また億劫にさせる。詩人とは人を黙らせ、理想をうたう存在者だ。学問には余計な客観性がないからだ。光がまた詩人を黙らせる。

    私は自分に言い聞かすが、応援してくださる方は多い。
    こんなもったいないやつを正しいとする、自己弁護して、人を和めるのなら、と諦めない日々を送っている。思いつくが諦めない事が日本的な霊性である。そうだから、めちゃくちゃで、まず道理が通らない。


    過ぎたところから始める。
    だれてしまったところから始める。
    ここからが勝負というとこで、余裕をつくるためである。
    繰り返し覚えることで、フランス人のテンションに近づくかも知れない。
    中国人の博識に触れるかも知れない。
    これで一片を守って行く、どうせならそういうポジティブな事に取り組みたい。
    自分を、変えるわけではなく、

    自分のまま、宙を見極める事。太極拳でよくあるが、力を抜く(事が出来るのだ)。
    格好の良さというのはそういった内面の研磨なのだ。左右対称が本当の美人だと云われるが、こうね、光に真っ向から向かわなくても光に対して体の、心の均等をはかる。蛾などの害虫は、蛍光灯などを群がっているのをよく私たちは目にするが、蝶などの昆虫の様に、自分を認識したいものだ。
    左右対称とまではいかなくても、地球を光で守りたい。惑星だって実は球ではなく、歪んでいるらしい、それを模さないか。
    そうすることで、身近な光に気付くのだ。

    こうして、ギリギリに光を躱せ、精神的にはしかとした不屈不撓のかっこいいパンチを打つことが可能となる。

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