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2016/11/06
昔からのDSA会員の方々にとっては周知のことですが、最近の会員の方やその他の皆様にはこの辺の経緯はあまり知られていないようなので、一応の説明です。 (メインサイトの「デジタル書道について」に追記掲載したものを抜粋)
*なお、DSAの歴史について知りたい方は、現東日本デジタル書作家協会のホームページ上にある【デジタル書の歴史について】をご覧ください。
「デジタル書」と「デジタル書道」という表記の違いについて、私が知っている範囲の経緯を備忘録として少し書いておきます。
先に結論から書きますと、DSA会員がこれらの呼称を使うにおいては、「デジタル書」と「デジタル書道」共に意味に差異はありません。
10年以上前に、便宜上呼称を変更したにすぎません。
「デジタル書道協会」が「デジタル書作家協会」になる前には、協会会員が「デジタル書」という呼称を「CG加工した書作品アート」に対して使用することはありませんでした。
「デジタル書作家協会」は、設立当初は「デジタル書道協会」と言い、その名称は当時商標登録されておりました。
しかしながら、その商標を登録した名義人となる方が当協会を退会するにあたり、商標の名義は当時会員の誰にも移譲しないということとなりました。
そのため、「デジタル書道」という名称を使わずに協会を存続させる案が練られました。
(デジタル書道という名称は、今でこそ様々な方々が様々な解釈で使用しているため、堂々と一般的な呼称と言えるでしょうが、当時はそうではなかったのです)
厳密に言えば「デジタル書道協会」を使わなければ良いのであり、「デジタル書道」は使用に問題がないと思われるのですが、シニア会員間で話し合いをした当時は、後々こじれた話にならないよう、呼称を変更することに決定したのです。
その結果、「デジタル書道」は「デジタル書」に、「デジタル書道協会」は「デジタル書作家協会」に変わりました。
このことから、当時のDSA会員は自然と「デジタル書道」という言葉の使用を避け、「デジタル書」という呼称を使うようになり、私もそれに倣っておりました。
しかしながら、現在では「デジタル書道協会」という商標は登録されていません。ですから、好きな方の呼称を使うことができます。
先述の通り、時代は変わり「デジタル書道」は一般的な呼称として広まっていると思われます。
やはり「デジタル書」ですと、昨今は「デジタル(電子)書籍」の意にも誤解されやすいので、私はこれからの自分の作品ジャンル呼称としては「デジタル書道」を積極的に使っていくつもりでおります。
以上。
2016/11/06
<下記は、2007年に銀座で行った個展会場で販売していた小冊子「デジタル書の世界」に掲載していた文章からの引用(一部改変)です。メインサイト内でも公開していますが、若干の修正を行っての再掲載となります>
*写真は、2008年3月の中国広州桜まつり出展時のもの。
■似て異なる書アートの分野
書道展にデジタル書道作品があれば、目立ちます。
逆に、デジタル書道展に書道作品があれば、やはり目立ちます。
それは、水墨画展にカラフルな水彩画作品があるようなもので、しごく当然のことです。
書道とデジタル書道作品を、同列に評価することはできません。
なぜなら、書道とデジタル書道は異なる分野の書アートだからです。
双方共に書文字による自己表現を行う分野ですが、重視する点がまったく異なっているのです。
ちなみに、良く言われるところの「彩り豊かな書」というのは明確な相違点ではありません。なぜなら、最近では色を使った書道作品も珍しくなくなってきたからです。同様に、「彩り豊かでない」デジタル書道作品もあります。例外事項がある以上は、明確な相違点とは言えません。
本来、重視する点が異なっているのに、「書道」の評価で「デジタル書道」作品を評価しようとすれば「邪道」ということになり、「デジタル書道」の評価で「書道」を評価しようとすれば「物足りない。もっと何かした方が良いのではないか」ということになります。
では、どこが異なっているのかと言えば、私は次のように考えます。
いわゆる「書道」作品では、「瞬間の意図」を重視しているのではないでしょうか。
揮毫前の勉強・練習・準備などはあるにしても、「書道」作品においては結果的に揮毫時のわずかな時間に引かれた線が作品の大部分を決定します。
塗り重ねや表装、展示などの見せ方に違いはあっても、一度書かれた文字は、その構成や意図を大きく変えることがありません。
そして、いわゆる「デジタル書道」作品では、「意図の再構成」を重視しているのではないでしょうか。
書道作品とは違い、デジタル書道作品では揮毫時に考えていた構成や意図は、制作過程において大きく変わります。
パソコン上で柔軟に形状・構成・色彩を変え、他の画像素材と合成して作品を作っていきます。
場合によっては、揮毫時の作品とは似ても似つかないものを作品として完成させることもあります。
書道作品には書道作品の、デジタル書道作品にはデジタル書道作品の、それぞれにそれぞれの魅力があり、優劣を競わせるのはナンセンスです。
同じ「球技」という分野だからといって、サッカーのルールで野球をすることはできませんし、野球のルールでサッカーの評価はできないでしょう。
それぞれの分野で重視している価値観を、別の分野の評価に押し付けるようなことをすれば、そこには当然軋轢が生まれます。
書アートとは、文字を用いたアート全般を指す言葉です。
書道やデジタル書道は、この中に含まれます。
しかし、制作過程や重視する点が違うため、この二つは別分野の書アートということができると私は考えています。
それぞれ、健全に住み分けができるようになってくれば、現状はマイナーどころの印象があるデジタル書道作品も、いずれは自然に市民権を得ていくのではないかと思います。
筆文字の魅力、面白さ、奥深さを、CGの技法とどう融合し、アートとして昇華させえるか。
デジタル書道の世界は、まだ始まったばかりです。
さらなる発展を願ってやみません。
<2007年9月執筆 (2016年11月6日改訂)>
2010/05/04
こっちでは複数の画像アップが使えないので、ロフトワークさんの方に「PopCorn ゆび筆」のレビュー記事を書いてみました。
http://www.loftwork.com/user/5431/blog/49664/
今回初めて使ってみましたが、とても楽しいツールです。
興味のある方は、ぜひお試し下さい。
2010/01/10
*下記は、私が2007年の沖縄平和芸術祭記念作品集に寄稿した文章です。2010年現在、他では読むことが難しくなっているので転載しました。
書表現とデジタル書アートの魅力
デジタル書作家 山本KOU
人間が一番最初に行う自己表現とは、多くの場合、それは「産声」である。
アートには様々な定義・解釈が存在するが、自分の意志を意識から引っ張り出し、現実世界に顕現させる行為、即ち「自己表現」という事をアートの意義の一つとすることに、異論は少ないだろう。
産声を発する瞬間、人は心にある「意志」を外界に発する術を知る。そのような意味で、発声というものはプリミティブな自己表現のひとつと言える。
その「発声」を書き記し残すために、文字は生まれた。「書き記す」ということは、「発声」に含まれる時間軸を取り払い、現実に存在する形状として具現化する行為である。
書アートの魅力の一つに、その失われた時間軸を鑑賞者の中でどれだけ甦らせる事ができるか、という事がある。単なる活字フォントでは、自分の伝えたい文字の意味・意図を、流暢に表現できない。故に、書アーティスト達は思いつく限りのあらゆる方法でもって「書く」のである。
デジタル書とは、書文字とCG彩色を組み合わせた新しい書アートの可能性である。書道では、書体や書風、様々な用具などを場合によって適切に使い分け、書を豊かに奏でるが、デジタル書では、CG彩色を用いてこの演奏にさらに彩りやイメージを手軽に付与することができる。
誰でも、自分の表現したい感情を持っている。書文字は、その感情・意識を最も簡明に表現できる手段のひとつであるが、そこにCG彩色の技法を加える事で、そのイメージはさらに強烈な表現力を持つ。
書道と違い、デジタル書では書に関して特に高い技法を求めない。基礎的な書とCGの知識さえあれば、誰にでもそれなりのクオリティを持った作品を作ることができる。無論、自分の表現にバリエーションを求めるのであれば書やCGの勉強は必要だが、必要に応じて行えば良いだけに過ぎない。
技術の巧拙や年齢を問わず、自分が伝えたいイメージ・旋律を手軽に書アートで表現できるということ。それが、デジタル書という分野であり、魅力なのである。