恋愛脱出速度

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  • 邂逅ステーション(短編集より(4))

    2015/09/05

    小説

    時間にも相対性というものがあるらしい。それも、日常的に感じるほどに。

     

    あの有名なアインシュタイン博士が言った言葉。可愛い女の子と過ごす一時間と、火を燃やすストーブの上に手をかざす一分間を比べるそのお茶目さは、おどけた表情で舌を出している写真からも見て取れる。お堅い相対性理論と、笑うのが苦手だったという彼のイメージとは対照的で、僕はなんだか好感を持っている。

     

    相対性と言えば、忙しい朝の五分とつまらない会議の五分が等しいものとは思えない。社会人はたまた学生にだって、朝の時間は恋人のようなもので、愛しい布団に別れを告げるのはまさに恋人との時間を終わらせるようなものなのだ。けれど悲しきかな、布団との情事に耽るようでは、この世界では生きてゆけない。

     

    世知辛い世の中では、朝の一分一秒が命運を左右する。昔の人は言った、早起きは三文の徳である、と。もちろん文字通りに三文の得をするわけでないことも知っているし、今の世の中では三文は大した価値はないのだろう。けれども早起きして得るものは少ないが、寝坊して失うものはとても大きい。

     

    ほんの少し、あと少し。そのつもりの二度寝が、後々取り返しの付かない事態を招くことを僕は知っている。だけどそれは僕の話じゃないんだ。些細な自慢だけれど、僕は今まで寝坊で遅刻したことは一度もないし、時間にはきっちりしているはずだ。

     

    愛しい布団との別れに涙しつつ、今日も僕は少し早めに駅に着いた。駅までの道は歩くことに決めている。
    今日だって電車が来るまではまだかなり余裕がある。僕は自動販売機で飲み物を買った。がたん、と大きめの音を出して缶が落ちてきて、僕はそれを手に取るとホームの端のほうに歩いた。

     

    心地良い春の息吹がそよぎ、桜の花びらをひとつひとつ爪弾いて風に乗せてゆく。隆盛を過ぎた桜は少しの風にも散らされて、容易くはらはらと舞い落ちた。

     

    毎朝同じ電車に乗って一ヶ月あまり。そして気付いたことがある。
    それは向かいのホームでいつも本を読んでいる女の子がいること。

     

    二本の線路で区切られた向かいのホームはそれほど遠くなくて、毎朝熱心に本を読んでいるものだからついついタイトルが気になってしまう。けれどそれは落ち着いた色のブックカバーに隠されて分からない。まあもっとも、カバーをしていなくてもこの距離だとタイトルが読み取れるかは微妙なところだけれど。

     

    それでも、本屋で付けてくれるような安っぽい紙のカバーではなく、しっかりとしたカバーを使っているのだから、きっととても本が好きな子なのだろう。
    流行の本を読んでいるのだろうか。それとも純文学なのだろうか。もしかしたら恋愛指南書かもしれない。

     

    そんなことを考えながら僕はふと、自分が読書というものから遠ざかっていることを思い出した。

     

    ホームの裏にある桜の木が、身にまとった花びらを風に託している。木から解き放たれた花びらは、春の柔らかな風に吹かれて舞った。それがまるでピンク色の絨毯をめくるように見えて、思わず目を奪われた。

     

    花散らす桜の木の下。いつからだろう、舞い落ちる花に抱かれるようにして車いすを押す少年と、その車いすに乗った少女がいるのに、ふと気付く。

     

    「行こうか、――」「はい、どこまでも。一緒に――」

     

    そんな声が聞こえた気がする。

     

    やがて軋む音と共に電車が到着し、僕は振り返らずに開いた扉へ足を踏み出した。 春風はどこまでも優しくて、僕は彼らの幸せを願わずにはいられなかった。

     


     

    雨を疎ましく思うようになったのはいつごろからだろうか。

     

    小学生の頃は傘も差さず走り回り、水たまりに飛び込んでいたような気がするのだけど、そういえば最近の小学生がそうしているところをあまり見ない。きっと親が酸性雨の危険性について熱心に教え込んでいるに違いない。

     

    駅まで歩く道の脇に紫陽花を見つけて、僕はふと立ち止まった。記憶が定かならば、土の酸性度だかによって花の色が変わるのだ。目の前に咲いた紫陽花の色は濃い紫色をしていて、花びらを伝って落ちた水滴まで染まった気がした。もっとも基準の色など分からないけど、雨で霞む景色の中に垂らした絵の具のように、それは僕が足を止めるのには十分だった。

     

    雨は空気を冷やし、衣替えを済ませた人が身を抱くようなそぶりを見せた。煙るような梅雨の雨は些か肌寒い。

     

    裏手の道には足早に歩く人たちの色とりどりの傘。雨の日は、晴れや曇りの日よりも街に個性があふれる。コンビニで売っているような安っぽいビニール傘、ビジネスマンの黒い傘、小学生の黄色い傘、スーツで決めたお姉さんのお洒落な傘、はたまた幼稚園児のレインコート。表情からは見えないその人の気持ちを少し知ることができそうで、それは育った環境によって色が変わる紫陽花のように思えた。

     

    そんなどうでもいいことを考えて、今日も電車を待つ。

     

    抱えきれないほどに湿気を含んだ風がときどきホームを抜けるように吹く。癖毛がちな僕は少し髪が気になって、指先で確かめた。

     

    向かいのホームを見れば、いつものあの子が今日も本を読んでいる。湿気で本が読みにくくないだろうか。そんな余計な心配をしてしまう。今日はどんな本を読んでいるんだろうか、その表情から読み取ることはできなかった。

     

    疎ましい雨が降り、些細なことにだって落ち込んだりもするけれど、もう少しで来る夏に心が躍るこの季節が、僕は嫌いじゃない。

     


     

    陰鬱な梅雨が明け、本格的な夏を間近に控えた陽気は容赦がない。手にした缶が冷たい水滴をその身にまとう。ホームを吹き抜ける風が気持ち良くて、僕は思わず伸びをした。初夏の空のずっと向こうに見える雲はいつもより厚みがあって、とても触り心地が良さそうに思えた。ふかふかのベッドを思わせて、今度はひとつ欠伸。


    そんな時に限って、向かいのホームで本を読む彼女はちょうどこちらに視線を向けていたようで、僕がばつの悪そうな顔を見せると、ぺこりと、頭を下げた。

     

    青々と茂らせた葉からは若い夏の匂いがして、いっそこのままどこか遠くに出かけたくなる。この電車に乗って、いつも降りる駅を通り過ぎて遙か遙か先へ。今なら僕の心は夏の空をも越えることができる。行き止まりの駅まで行って、そこからバスに揺られてもっと先へ。坂道を下り、海の見える場所へ。

     

    日常へのささやかな反抗は、到着した電車の音にかき消され夏の空気に霧散した。

     


     

    日が空の頂上から下り始めて少し経った頃、今日はいつになく早く帰宅の途につくことができた。蝉の鳴き声は時雨のように降り、夏の過激なほどの日差しは容赦なく照りつけている。けれど駅に近づくにつれ雲行きが怪しくなり、着く頃には夏特有の雲から大粒の雨が降り出した。

     

    今日に限って傘を持っていなかった僕は、そのまま駅で立ち往生をせざるを得なかった。夕立はすぐ止むと言うけれど、果たして本当なのか疑ってしまうほどの勢いだ。遠くでごろごろと雷が鳴り、張り込めた厚い雲で一気に暗くなった世界は、ついさっきまでの様子を思い出すことができない。大粒の雨が地面を叩き、雷光が厚い雲を芯から照らすその様子を、僕は雨に濡れないベンチに腰掛けて眺めていた。

     

    たまに来る台風が夏の名残をぬぐい去り、どこからともなく秋の気配を連れて来るのだろう。それは夏の夢を見ても、起きたらいつしか忘れてしまうかのように。

     


     

    秋というものは、どうしてこんなに物悲しいのだろうか。

     

    何年か前のちょうど今の頃。陽が沈み、混ざり合う橙と群青の下。自転車をこぎながらそんなことを考えたことがある。当時はどれだけ考えても、結局納得できる答えが出せなかった。それでも少しだけ胸が締め付けられるような、そんな無力さを感じたことを覚えている。

     

    いつの間にか日が短くなって、夕方の鐘が一時間早くなって、空が高くなって。薄着で寝冷えして、ふとした瞬間の風に香る金木犀を感じ、蝉の音と雨を告げる蛙の鳴き声が次第に弱くなり、透き通るような虫の音に移り変わるうちに、気がついたら秋が深まっている。それはまるで仲良く遊んでいたはずの友達が、自分に内緒で遠くに引っ越してしまったような感覚。夏は僕を悲しませないために、そっと別れを告げて去っていく。夏に片想いをしていたことに、僕は秋が来てから気付くのだ。

     

    ふとホームの裏手の道を見れば、着物に羽織を着た女性がいることに気付く。空を見上げているのでその視線を追ってみれば、そこには薄く白い月が見えて、普段見落としていた大切なものを見つけたような、そんな気分にさせた。

     

    やがてその女性は凛とした仕草で懐中時計を見ると、まるで時を刻むような歩調で優雅に歩いて見えなくなった。

     

    向かいのホームに視線を移せば、今日も彼女は本を開いていた。風がさらさらと髪を撫で、少し俯いた表情はまるで絵のようだった。きっと良い絵になるはずだ。

     

    僕は自分の鞄から本を取り出した。なんの変哲もない文庫本だけど、自分で選んだブックカバーを付けているのは、彼女の影響であることを認めざるを得ない。一度も会話をしたことがないけれど、誰かに変化を与えることができる。そんな僅かな生活の変化が、僕にはとても心地良いものに思えた。

     

    秋色に染まって落ちた葉が、足下で乾いた音を立てて風に吹かれてゆく。そよぎ吹かれ飛んだその葉の行方さえ、僕は知ることができない。

     


     

    夕方になって降り出した冷たい雨は、すぐに雪に変わった。都会からこの街に来て初めての冬。すでに何度か雪は降ったのだけど、こんな勢いで降ったのは今日が初めてだ。雪はみるみる積もり、すべてを白へと覆い隠していった。

     

    翌日。なぜだか落ち着かなくて早く目覚めた僕は、いつもより早く家を出たのだけど、どうやらもっと前に電車は運転見合わせになっていたようだ。駅は普段より幾分ざわざわとしているけれど、もともと利用者はそれほど多くない駅だ。暖を求めた少ない人たちが駅舎や、止まって動かない電車の中にいるのがちらほらと見える。

     

    僕は会社へ遅刻する連絡を入れると、自動販売機で飲み物を買った。このあいだ買ったばかりの安くて薄い手袋は、刺すような冷たさの風を和らげるには頼りない。かじかんだ手に伝わる缶の熱さがじんわりと染みた。

     

    発車できないまま止まっている電車のせいで、向かいのホームの様子は分からない。けれどどうしても乗り込む気になれず、僕は外で雪をずっと眺めていた。手にした缶は次第に冷めて、そろそろ僕の手から熱を奪い返すのだろう。

     

    降り頻る雪を見上げると、まるで宇宙空間をとても早く進んでいるように感じた。雪はさながら光る恒星のようで、自分は空間を高速で進む船に乗ったような錯覚。そんな感覚に酔った僕は、冷たいベンチに腰掛けてずっと空を眺めていた。

     

    雪の日、静かな世界、待ちぼうけ。
    積もった雪は周囲の音を吸収して、世界を静寂で覆っていた。

     

    やっと電車が動く見通しが付いたのは昼も近くなってから。僕はとうに冷えた手を擦りながら、乗らない理由はないはずなのに、それでもなぜだか電車に乗る気にはなれなかった。昼の日差しとはいえ弱々しく、手のひらを暖めるには足りない。

     

    向かいのホームの電車も動き出すようだ。彼女は無事に学校に行けたのだろうか。彼女が本を読む姿が見えないだけで、なんだか今日は落ち着かない。

     

    しばらくすると、駅員はようやくの発車を告げる。

     

    手動に切り替わって閉まっていたドアが、がたん、と無骨な音を立てて一度開く。そのあともう一度、扉はがたんと音を立てて閉まった。枕木を走る規則正しい車輪の音が、次第に間隔を早めてゆく。巻き上げた風が積もった雪に冷やされ、僕の頬をつん、と撫でた。

     

    電車を見送ってため息をひとつ。冷たい空気に触れた吐息は、大げさなくらい白くなって広がってから広がって消えた。

     

    もう一度。深呼吸のようにため息をつきながら向かいのホームを見たとき、僕の胸は冬に似合わないくらい熱くなるのを感じた。

     

    誰もいないと思ったホームに、彼女の姿を見つけたからだ。けれど彼女はいつものように本を読んでいるわけじゃなくて、僕と同じように初めから向かいのホームを見ていたように感じた。その表情はどこか憂いをおびたように見えて、雪でしっとりとした空気にとてもよく似合っていた。

     

    瞬刻。彼女は僕を見つけると驚いたように表情を変えた。そのあと彼女はぺこりと頭を下げると、僕に向けて小さく手を振った。
    ぎこちなく手を振り返した僕は、それだけでは居ても立ってもいられなくなって、向かいとこちらのホームを繋ぐ橋へと体が動く。ちらりと彼女を見ると、こちらを見ながら同じように駆け出す彼女の姿が見えた。

     

    最初の一言はどんな言葉がいいのだろう。そんな少しの不安と、それを上回るうれしさで、僕は階段を一段飛ばしながら上った。

     

    ほんの数秒。それでも長く感じられる相対性を持った瞬刻を待ってから、彼女も同じ場所に辿り着いた。寒かったからか、階段を駆け上ったからか、あるいは別の理由――僕は心の中でそれを望んでいた――か、彼女は上気して少し頬を染めていた。

     

    少しの距離を置いて見つめ合った僕たちはとても滑稽かもしれない。けれどいつものように僕たちを隔てるレールはもう、ない。少しだけ変化しそうな日常を思いながら、胸で静かに鼓動を高める気持ちに素直になろうと、僕は一歩を踏み出した。

     


    2012年5月6日 第14回文学フリマで頒布『断片集』より

  • 月光散歩帳(短編集より(3))

    2015/09/05

    小説

    朔  おはようございます。今日の月の出は五時十九分。

     

    夜が朝と混ざり合って溶け出すような深い色が、空を緩やかに染めてゆきます。

    太陽がとても眩しくて、今日の月はどこにいるのでしょう。夏の盛りを過ぎて苛烈さが和らいだ日差しは、それでも直視することのできない眩さです。きっとすぐ隣に浮かぶ月を、私は見ることができません。そこに確かに在るはずのものを見ることができない。それは曖昧な気持ちを見ることができないのと同じですね。けれど見えなくても確かに存在して、私と世界を繋ぎながら渦巻いているのでしょう。

     

    やがてお昼を過ぎて、明るい街を一人で散歩しながらそんなことを考えるのです。北に位置するこの地域に訪れる秋は早く、澄んだ秋の空はどこまでも高くて、もこもこと触り心地の良さそうな雲がのんびりと浮かび流れています。蜻蛉が自由に飛び交い、たまに枝の先でひと息ついて、そんな昼下がり。のどかでふわりと進む時間のおかげで、いつもより寄り道もたくさんできました。

     

    今日の月の入りは十七時二八分。素敵な今日を思い出しながら、おやすみなさい。

     


     

    繊月  おはようございます。今日の月の出は七時三十九分。

     

    太陽の少し後ろをついてゆく姿はどこか儚く、そして細くて可憐です。けれど眩しく大きな太陽が地平に沈んでから僅かの時間しか、私はその姿をはっきりと見ることができません。それは少し寂しくもあり、それでも足元の星から反射した陽光が、月の暗い部分を薄く照らし出しているのを見て、私は少しだけ優しい気持ちになれました。今なら遠く離れていても、細やかに繋がっていると分かる気がします。

     

    やがて日が沈み、薄明の空に溶け込んだ不思議な時間に迷い込み、今日の散歩はどこへ向かいましょう。空いた小腹が、私を賑やかな商店街へ誘います。

     

    夕暮れを過ぎた商店街は活気に満ち、呼び込む声は一日を終えるのが勿体無いと思えるほどでした。人の良さそうな店主からいただいた、小さな焼き芋を食べながら、私も活気溢れる街の風景に溶け込むのです。ちょっとお行儀が悪いけれど、なんだかそれすらも楽しくて、やみつきになってしまいそう。

     

    今日の月の入りは十八時三十九分。まだまだ夜は始まったばかりです。

     


     

    弓張 上弦  おはようございます。今日の月の出は十三時五分。

     

    太陽がとても眩しいですね。寝起きの目にはすこし刺激が強いほどです。意を決して空を見上げるとそこには、数日前より丸くなった月が浮かんでいました。秋色に澄んだ空に薄く白く浮かぶ姿は儚げですが、きっと数日後には真ん丸になって夜の闇を照らしてくれることでしょう。

     

    月が高く昇ってくる頃、私は深まった夕闇の街へと出掛けます。今宵はどんな出会いがあるのでしょう。空には弓に張った弦の月。無機質ながらも冷たさと温かさが混ざり合った月明かりは、散歩している犬にも、帰宅を急ぐ人にも、談笑する学生たちにも、同じ早さでついてゆきます。少しの駆け足にだって、ほら。

     

    いつもとほんの少し違う速さで視界を流れる街並みは、私の心を高揚させるには十分すぎるほどでした。この足取りなら、もっともっと遠くへだって行けそう。

     

    今日の月の入りは二十三時四分。日付が変わる少し前。西の空に沈む月をずっとずっと見送ってから、今宵の私は眠るのです。おやすみなさい。

     


     

    十三夜  おはようございます。今日の月の出は十六時十一分。

     

    誰かに呼ばれた気がして、初めての道に迷い込んでみました。街灯の心細い明かりを頼りに目を凝らすとそこには白い猫。あの子が私をここに導いたのでしょうか。

     

    周りの家々からはそれぞれの明かり。微かに風に乗る夕餉の香りは幸せの色をしています。脇を通ると団欒の声が聞こえ、そこに生活する人たちの幸せを垣間見ることができました。私と同じ時を生きる、交わることのない人たち。それでも今ここで感じた生の脈動は、一人でないと思えるものでした。

     

    ともあれ、路地裏の屋根と電線で切り取られた空は狭く、少し窮屈です。そこから見える月が、まるで網となった電線に捕らわれているように見えて、私は路地を抜けて開けた場所を探すのでした。すると外し忘れた風鈴の澄んだ金属のような音が、微かな風に乗って私の耳に届いた気がしました。さようなら、白い猫さん。またいつか素敵な月夜にお会いしましょう。

     

    今日の月の入りは三時二十四分。おやすみなさい。

     


     

    十五夜  おはようございます。今日の月の出は十七時九分。

     

    今宵は満月。真ん丸の月は煌々と輝き、いつもよりも頼もしい光で地上を照らしています。今夜はささやかながら、お団子と薄、そして御神酒を用意いたしました。いつも夜を優しく照らしてくれてありがとうございます。昨年は無月でしたが、今年はとてもよく晴れてくれました。

     

    縁側に腰掛けると、夜風がどこまでも優しく涼やかに、私の頬を撫でてゆきます。小さな盃に月を浮かべて、少しだけ飲んだお酒がふわふわして、なんだか気分がとても軽くなったようです。風にそよぐ草木の音を聴きながら食べるお団子は、真ん丸な月を食べている気分。ひとくち食べると、あら、三日月になってしまいました。

     

    南の空高くに月が届く頃、今日は昨日になり、明日が今日になります。過去と今、そして未来が混ざり合って迷子になりそうな時間。私はいつものように当てのない散歩へ出掛けます。満ちた月に照らされる夜道を歩けば、どこへだって行けそうです。

     

    今日の月の入りは五時二十七分。月が沈むまで散歩をしましょう。

     


     

    十六夜  おはようございます。今日の月の出は十七時三十九分。

    夜の帳が緩やかに下りて、静かな夜の始まりを告げました。今夜は十六夜ですね。今までと反対側に欠けた月が、昨日より少し遅くになってから顔を出しました。

    夜風に乗って流れる金木犀の香りは甘く、さらさらとした秋特有の風と、そよぐ草木の音だけが夜を包んでいます。

    古い家屋が連なり、少し上り坂になった道を歩くと心も弾みます。頭上から照らす月明かりが足下に落とす小さな私の影が、私の足取りに合わせてちょこちょこと舞踊を披露したように見えました。観客は月と夜の風、そして秋の花。私だけの舞台はこの先にある丘。

    辿り着き開けた視界の先に、細やかな明かりを湛えた街が見えました。静かに眠る街のうねるような胎動は、まるで明日を夢見ているかのようです。街全体がひとつの有機的な繋がりを持ち、そこに住む人たちは血管内を流れる血球そのものです。

    今日の月の入りは六時二十七分。おやすみなさい、今宵も胎動する街の中で。


     

    立待  おはようございます。今日の月の出は一八時一二分。

     

    空は次第に夕闇を迎え、西の地平へ日が沈んでゆきます。染まる空の反対側、月が地平から昇ってくるのを、私はぼんやりと立ちながら待っていました。

     

    少し欠けた月は、無欠な満月よりもどこか親しみやすい気がして、欠けてばかりの私はそんな月に密やかな親近感を覚えるのです。

     

    お気に入りの懐中時計。竜頭をかりかりと巻いて、その動きが止まらないように。私が生きた時間よりも長く時を刻んできた時計は、今私の手の中で、私と同じ時の流れに乗っていることでしょう。やがてその短い針が九を指す頃。秒針がかちかちと進む微かな音に合わせて足を踏み出せば、まるで私が時を刻んでいるかのようです。

     

    小さな一歩を重ねれば、いつか遠くのどこかへ辿り着くこともできるでしょうか。それとも月の小さな満ち欠けや、時計の秒針が同じところをくるくると廻るかのように、同じところに帰ってきてしまうのでしょうか。それはそれで良いか、なんて。

     

    今日の月の入りは七時二六分。おやすみなさい。

     


     

    居待  おはようございます。今日の月の出は一八時四七分。

     

    鴉の鳴き声と帰宅を促す鐘の音が聞こえ、夕闇は段々とその色を濃くしてゆきます。もう一度明るくなったとき、それは今日ではなく明日なのです。今の私には、そんな当たり前のことすら寂寥を感じるには十分すぎるほどでした。そんなことを縁側に座って考えていると、いつの間にか今宵の月が顔を出しています。

     

    お昼の短い間にとても強く降った雨は、道路のあちこちに水溜まりを残していきました。その水面に静かに浮かぶ光は、見上げる月よりとても小さく可愛らしく思えて、今夜の散歩はたくさんの水溜まりに寄り道をすることになりそうです。

     

    水分を含んで吹く風はいつもよりひんやりとして、髪を撫でてみると指にしっとり馴染みました。私はなんだか嬉しくなって、指先をくるくると動かしてその感覚を楽しむのです。路上の小さな水面はそっと波打ち、浮かぶ月が柔らかく揺れました。

     

    今日の月の入りは八時二四分。夕暮れに見た空は燃えるように赤かったので、きっと月が沈む頃には、素敵な秋空が広がっていることでしょう。おやすみなさい。

     


     

    寝待  おはようございます。今日の月の出は一九時二七分。

     

    早めの湯を浴びたあと、気持ちの良い夜風に吹かれた私は、少しの間うたた寝をしてしまいました。湯冷めしないよう浴衣の上に羽織を着ると、芯に籠もった熱が巡ったような気がして、なんだかいつもより温かくなりました。

     

    ころん。下駄を履いて庭に出ると、夏の星座が足早に西の空へと逃げてゆくのが見えます。東の空には昇り始めた秋の星座。目立つ星の少ない秋。ちらちらと光る星明りは、月に負けないように懸命に瞬いているようで、とても健気に思えます。

     

    家の裏手の道へ出てみました。見慣れた表通りとは違い、寂れた空気が郷愁を募ります。するとそんな私の寂しさに気付いたのか、どこからともなく艶やかな黒い毛の猫が擦り寄ってきました。寝転がって喉を鳴らす姿に、思わずくすりと笑ってしまいます。屈んで撫でたときに伝わる少し高めの体温が気持ちよくて、いつまでもこうしていたいくらい。けれど黒猫は気紛れに、にゃん、と鳴いて闇の中へ。

     

    今日の月の入りは九時二〇分。気ままな猫のように、私も眠ることにいたします。

     


     

    更待  おはようございます。今日の月の出は二〇時一〇分。

     

    最近の月はお寝坊さんですね。今日の天気は薄曇り。白く薄い布のような雲は、風に乗って足早に空を流れてゆきます。

     

    ようやく顔を出した月も、どこか朧気な表情をしているようです。晴れの夜の月は明るくてとても綺麗ですが、雲や涙で滲む月はどこか胸の奥が締め付けられるような気がして、私はいつも思いを寄せるのです。

     

    そうそう、今宵は先日いただいた本を読むことにいたしましょう。冬の街を舞台にした切なくて優しい物語。私がこの街で迎えるひとつ先の季節には、いったいどんな景色があるのでしょうか。

     

    灯した明かりは浮かぶ月よりずっと明るくて、それでもたまに本から視線を外し仰ぎ見ると、まばたきをするように月が雲で見えたり隠れたり。

     

    月が薄い雲でそっと目蓋を閉じるように、朝を迎えても沈まぬ月を思い、私も眠りにつくのです。

     

    今日の月の入りは一〇時一三分。おやすみなさい。

     


     

    弓張 下弦  おはようございます。今日の月の出は二三時四五分。

     

    夜も深まりひんやりとした空気は、ひっそりと忘れられたように咲いた名も知らぬ花や、家主のいなくなった蜘蛛の巣に、透明な水滴を落としてゆきます。淡い月明かりを受けて静かに光るそれは、そっと指で弾くとどこまでも澄んだ音を奏でてくれます。それはとても切ない響きで、映り込む世界は夢の泡沫そのものでした。そっと湛えた涙もまた、月光を浴びて光るのです。

     

    私は頬を伝う水滴を感じながら歩き出しました。少しぼやけた世界は光が滲み広がって、夢の世界に迷い込んだ私の存在までもが泡沫のように消えてしまいそう。けれど涼しい夜の風はすぐに私の頬を優しく撫でて、そんな夢の世界をあっという間にぬぐい去ってゆきました。そしてやがて来る薄明過ぎの光を浴びて、月光とは違う色に輝く朝露が夜を見送り、まさに始まる日を迎えるように見える頃、私は静かに笑みを溢すのです。その視線の先にはきっと、夢より素敵な世界が広がっています。

     

    今日の月の入りは一三時一一分。おやすみなさい。

     


     

    晦  おはようございます。今日の月はかくれんぼ。

     

    白黒だった淡い夜の世界に、太陽が鮮やかに色を乗せてゆきます。この世界を、どんな色に染め上げてくれるのでしょう。それは夢から覚めるように、世界を初めから再構成するようで、けれど入れ替わるものなどなにもありません。

     

    すべてが変わるような大きな出来事はあまりないけれど、僅かな移り変わりにも気付いてゆける、そんな心でいたいと思うのでした。月明かりの機微に触れながら日々を歩けば、私の心も欠けたり満ちたり。

     

    久しぶりに月のいない世界。短い別れと、あなたのいない暗い夜に少しの寂しさを感じつつ、きっと会える明日を描き、思いを馳せながら今日は眠りにつくのです。

     

    おやすみなさい。良い夢を、素敵な明日を。

     


    2012年5月6日 第14回文学フリマで頒布『断片集』より

  • 夏暮れ(短編集より(2))

    2015/09/05

    小説

    雲の僅かな影に逃げ込んだ地面さえも、じりじりと焼け付いていくような錯覚。飲んだばかりの水はあっという間に身体を巡り蒸発して、僕という存在が夏の空気に溶け込んでゆく。

     

    降り注ぐ苛烈な日差しは揺らぐ陽炎となって、道路の隅で轢かれた蛙の亡骸からも水分を奪い、熱風から逃げた猫が路地裏の影からこちらを窺っている。

     

    季節は八月。太陽が隆盛を極め、蝉は僅かな命を燃やし、僕は数刻待ち続け未だこの場にいない人のことを考えた。初めは涼しい場所で待っていたのだけれど、待ち焦がれて飛び出してみればそこには身を焦がすほどの暑さだけが、変わらず僕を待ち構えていた。そんな僕を嘲笑うかのように、路地裏の猫が大きく鳴いた。

     

    影を探す。まだ高い日から逃げられる日陰はそう多くない。

     

    「待ち人来たらず」――いつの日か引いた御神籤に、そんなことが書いてあった。どうせ関係のないことだ。そう思い仕舞い込んだまま忘れ去られたはずの言葉が、どうして今になって思い出されるのだろう。

     

    そもそも初めから来ることなど期待していなかった。けれどそれは嘘だ。今になっても拭いきれないのはきっと、意識の片隅に捨てきれない後悔と未練があったに違いない。けれどそれを言葉にして吐き出すのがとても恥ずかしいことのように思えて、僕は内に秘めたまま口を噤んだ。

     

    目を閉じる。目蓋は強い日差しを遮るにはあまりに薄い。無数に走る毛細血管を流れる血が、閉じた視界を赤く明るく染める。思い描いたはずの景色はいつの間にか薄らぎ揺らいで遠のいた。

     

    何を思い、どんな景色を描いたのか。その世界はどんな色で、僕はどこにいて、そして誰と一緒にいたのか。そんな簡単なことさえも、思い出せなくなる。まるで逃げ水のように、追いかけても追いつくことができない。想起しようとするたびに、自ら記憶を遠ざけてしまうだけだ。

     

    電線の交差する空を仰ぎ見ると、いつの間にかどんよりとした雲が低空を覆っていた。忍び寄るように近づいてきた雨雲はたちまち広がり、僕は浮かんでいるはずの雲から重さを感じ取る。その実体を伴わないはずの重みが、心を重く深くへと沈めていく。溺れた心は息もできず、けれど押さえつけられ浮上することもできない。

     

    数秒前の閃光が、今になってその音を轟かせた。大気は振動し、地鳴りのような音はびりびりと胸の奥に響く。

    雨に濡れるのを避け始めたのはいつのころからだっただろう。ある日突然、というわけではない。変化を意識の片隅に押し込めて、それでも変化を止めることはできなかった。水溜まりを鬱陶しく思うのも、飛び越えられなかった過去があるからだ。
    湿気を吸ってうねった髪の毛を指に巻き付けながら、そんなことを考える。迷いを持って伸びた髪が、まるで自分のように思えた。

     

    抱えきれないほどに雨を抱いた雲が、ついに堰を切って大きな雨粒を落とし始めた。世界が水底に沈み込んでしまった、そんな気分にすらさせる激しい雨が、蝉の鳴き声と、雨を喜び祝福するような蛙の鳴き声に混ざり合って耳に残る。
    水滴は地に落ちあっという間に水溜まりとなる。すぐに水溜まりは広がり繋がって、道を流れる川のようになった。

     

    僕は雨宿りする気にもなれず、ただ雨に打たれながら何かを考え、何も考えていないようでもあった。まとわりつく少しぬるい雨が、ぞわりと心をくすぐる。

     

    自意識は外から見て初めて成り立つ。触ったものから同じ力を受けるから、物体がそこにあることを認知する。自分が発する声が聞こえるからこそ、なにを話しているかが分かる。だけど、見返りを求めない感情は、まだまだ足りないのだと錯覚してどんどん過剰になってゆく。
    好きになってもらいたいから。そんな理由で好きになったわけじゃないはずなのに。一方的だったはずの感情はいつの間にか、同じだけの見返りを求めて制御ができなくなる。衝動はすぐに理性を得て打算へと変わるんだ。
    未来なんて想像できなければいいのに、懲りずに幾度となく手に入らない空想を思い描き、届かない現実を見て絶望する。

     

    雨の匂い。水の匂い。草木の匂い。つかの間の非日常。
    日差しの熱と、雨を冷やす風が混ざり合って、とても奇妙な感覚に陥る。

     

    激しい雨はすぐに止んだ。それはさながら激情のように思えた。
    見上げれば厚い雲は切れ間を広げ、その隙間から割り込む日差しを受けて、大気中に漂う水分がきらきらと光る。

     

    夢を見るのは忘却の助け。夢であの人に会えるのはとても嬉しくて、そして寂しい。それは理性が忘れることを望んでいるからだ。夏の逃げ水を追いかける行為自体が水を遠退けるように、夢は記憶を彼方へと運び去ってゆく。

     

    今は過ぎ、明日は今日を経て昨日になる。
    やがて記憶となり、夕焼けのように色褪せ、追憶を経て忘却へと至る。
    今日は何を覚え、何を忘れたのだろう。心掻き乱す出来事の波紋も、いつか減衰し穏やかな水面へと戻る。

     

    まだ見ぬ明日を思い出すために、僕は今日も忘却の夢を見る。
    いずれは忘れたこと、その事実さえも忘れるのだろう。
    その世界はどんな色で、僕はどこにいて、そして誰と一緒にいるのだろう。


    2012年5月6日 第14回文学フリマで頒布『断片集』より

  • 春待ち(短編集より(1))

    2015/09/05

    小説

    初めまして。

     

    久しぶりに手紙を書くことになり、少し手が震えています。字を間違えずに最後まで書き切ることができるか心配です。誰かに宛てて言葉を選ぶのはなかなか難しいのですね。なんだかいつもより自分と向き合っている気がします。
    私の住んでいる街では、桜が見頃を過ぎて散り始めたところです。少しの寂しさと、これからの季節に思いを馳せたときの静かな高揚が混ざり合って、なんだか不思議な気分になりました。
    私は生まれてからずっとこの街に住んでいます。まだ行ったことのない土地、そこに住む人たち。遠くのことを考えるのは楽しく、そして少し窮屈かな、なんて。

     

    素敵な春をお過ごしくださいね。では。

     

    四月十五日 ○○○

     


     

    初めまして。

     

    この手紙があなたに読まれるのは朝でしょうか、昼下がりでしょうか。あるいは夜でしょうか、もしかしたら深夜でしょうか。晴れ、それとも雨。そんなことを考えながら筆を走らせています。少し時間がかかってしまいごめんなさい。字、とても読みやすくて綺麗でした。僕も久々の手紙に緊張しています。
    僕の住んでいる街ではちょうど今、桜が満開です。
    そちらの街とはずいぶん気温が違うようですね。四月に満開の桜、実はあまり経験がないので憧れています。桜と共に迎える生活の変化はどんな気持ちになるのでしょう。きっと素敵で、もしかしたら少し切ないのかもしれません。

     

    ありがとう、素敵な春でした。そちらも良い日々が過ごせますよう。では。

     

    五月六日 ◇◇◇

     


     

    こんにちは、お久しぶりです。少し間が開いてしまいごめんなさい。

     

    私の街は少し前に梅雨入りしました。毎日のように降る雨のせいで、部屋から見える景色もどこか落ち込んでいて、私まで元気がなくなってしまう気がします。
    春にこの部屋から見えた桜花はもう名残もなくて、代わりに青々とした若葉が雨粒を乗せて茂っています。私たちにはあまり嬉しくない雨でも、外の木々にとっては恵みそのものなのでしょうね。
    梅雨に入ると少し涼しくなるので、私は毎年のようにこの時期体調を崩していました。でも今年は違うんです。上着を羽織るように心がけたので、今のところ元気なんです。なんだか笑われちゃいそうですね、お恥ずかしい。

     

    雨は苦手ですが、傘を差すのは好きなんです。素敵な雨を。では。

     

    六月五日 ○○○

     


     

    こんにちは、手紙ありがとうございます。

     

    そちらから遅れること二週間あまり。こちらの街にも梅雨が来て、やっぱりどこか憂鬱な気分になってしまいそうです。小さい頃は雨も好きだったのですが、いつの間にか重苦しく感じるようになってしまいました。それでも雨上がりの日差しと地面から感じる熱が、次の季節を感じさせてくれる気がします。
    先日、使っていた傘が壊れてしまったんです。ずいぶん長い間使っていたので仕方がないのですが、少し落ち込みました。代わりに買ったのは安い透明な傘。最初は違和感を覚えましたが、見上げると透明な膜に水滴が踊っていて、その向こうに灰色の雲が流れていて、こんな風景も悪くないな、と。そう思いました。

     

    雨の日が少し楽しく過ごせそうです。今年も素敵な夏が来ますように。では。

     

    六月三十日 ◇◇◇

     


     

    こんにちは、お元気ですか?

     

    私の街は数日前に梅雨が明けて、ようやく夏本番の日差しがじりじりと照りつけています。梅雨の間に濡れた地面が蒸すように熱を帯びて、日陰でも茹だるような暑さを感じます。たまに吹く風も夏の香りになりました。
    ええと……書こうかどうか迷っていたのですが、おそらくいつか打ち明けるだろうことなら早いほうが良いかと思い、書きますね。実はこの手紙を書いているのは病室なんです。以前書いた、この街から出たことがない、というのもそのせいなのです。唐突で、そして少し戸惑うかもしれませんね。ごめんなさい。それでも知って欲しかった。その上でもしこんな私で良ければ、これからもお手紙送ってもいいですか。

     

    良い夏が過ごせるよう願っています。では。

     

    七月二十日 ○○○

     


     

    こんにちは、暑い日が続いていますね。

     

    梅雨の時期は雨に飽き飽きとしていたのに、夏の日差しばかりになると今度は雨が恋しくなります。遠雷を連れて時折降る夕立は激しさを帯びていて、それでも暑さを和らげるには足らなくて、それが夏らしくもありますね。
    なるほど、そうだったのですね。打ち明けてくれてありがとう、その信頼がとても嬉しいです。たとえば「苦痛を代わってあげられたら」と言ったところで、不可能だからこそ無意識に出る言葉なのかもしれず、そう考えるととても偽善的に思えて口を噤んでしまいます。けれど、せめて気持ちだけでも傍にいたい、と思う気持ちに嘘や偽りがないことを伝えたいです。こちらこそ、これからもお話させてください。

     

    どうか穏やかで優しい日々がありますように。では。

     

    八月十日 ◇◇◇

     


     

    お返事とても嬉しいです。

     

    なんと言い表せば伝わるのか、言葉がうまく見つけられないのですが、ありがとうと言わせてください。前回の手紙を出したあと、いっそずっと秘めておけばそのまま遣り取りが続けられたのではないか、もう返事は来ないかもしれない、そんな不安に駆られていました。けれどその不安は嘘のように、私の気持ちは晴れています。
    お医者様は、完治する可能性もあるとおっしゃいました。けれどそれには少し大きい手術を受けなければならないとも。でも怖くて、切っ掛けを掴めず迷いを捨てられずにいます。けれど、移ろいゆく季節を確かに感じられる幸せが、ずっと続けば良いのにとも思うんです。私はどうすればいいのでしょう。まるで迷子の気分です。

     

    素敵な秋が共にありますように。では。

     

    九月十五日 ○○○

     


     

    こんにちは、こちらは夜風が急に涼しくなってきました。寝相が悪い僕は油断していると寝冷えをしてしまいそうで、それが少し心配です。日に日に雲の浮かぶ高さが上がり、深まりゆく秋を色濃く感じるようになりましたね。

     

    このままの緩やかな未来、そして一歩踏み出して変化した未来。どちらも想像できるからこそ動けなくなってしまうその気持ち、今までずっと葛藤してきた辛さを僕が軽くすることもできず、こうして細く繋がり合うことしかできずごめんなさい。
    けれどきっと答えはもう心のどこかにあって、それを見つけたくない気持ちが目隠しをしているような状態なのだとも感じました。それでも僕は、何度でも巡る季節を、ずっと先まで見続けて欲しいと思っています。

     

    進む季節がいつも優しくありますように。

     

    十月十三日 ◇◇◇

     


     

    こんにちは、お久しぶりです。秋の涼やかな風が、次第に乾いてひんやりとした空気に変わりゆき、過ぎゆく秋と迫る冬を感じさせます。いかがお過ごしですか?

     

    私の心をすっかりと見抜かれてしまいました。おかげで迷う自分の背中をそっと押すことができた気がします。怖さは依然胸に残ったままだけれど、手術受けようと思います。この街のことも嫌いではないけど、まだ知らない世界を見に行きたいから。そのためなら乗り越えなきゃいけないって思えるようになったんです。ありがとう。
    手術は今月の終わり頃、たぶん十一月二十九日になると言われました。術後もしばらく経過を見る必要があるようです。だから、もし成功して、私が本当の意味で外に出られるようになったら、一緒に桜を見ていただけませんか? あなたの街で。

     

    同じ春を迎えられるよう、頑張ります。ありがとう。

     

    十一月十五日 ○○○

     


     

    真冬も間近な日々、いかがお過ごしでしょうか。手術の前に手紙を届けたかったので、間に合うことを願い初めて速達を使うことにしました。

     

    先日、こちらでは初雪が降り積もりました。写真を同封しますね。冷たい風に乗って舞う牡丹雪は冬そのものでした。けれど遅い春に見た桜の花びらをどこか連想させて、雪の遠く先に再び春が来ることを思い出させてくる、そんな気もするんです。
    今月の終わり、ですね。おそらくその日、僕はなにも手が付かないことでしょう。遠く離れた僕には、すべてが無事に終わることを祈ることしかできません。それでも、きっと叶えられる約束をすることはできます。来年の春は一緒に桜を見ましょう、僕の街で。そしてそのあとも、まだ見ぬ世界を一緒に見たいです。

     

    優しい雪解けを。そして一緒の春を迎えられますよう。今も心は共に。

     

    十一月二十三日 ◇◇◇

     


    2012年5月6日 第14回文学フリマで頒布『断片集』より

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