大澤悠

フォト、グラフィック、絵画、イラスト、プリント

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兵庫県川西市

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大澤悠

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  • COLORS 

    2009/04/17

    写真

    写真をアップしました。

    COLORS (midori)

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  • キャラ

    ワイルド・キャッツ・スパイク 



    私が作ったマンガのキャラ。約4年まえやけど。
    他にもチョイチョイ(1)あります。
    (2)とか。

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  • コバルトバイオレット + リンシード 一筋でこれだけ伸びる

    2009/04/03

    活動記録




     手製の油絵具を作り出し触れた二年前の春立ちの頃、ねばねばのシルバーホワイトがセメダインのようにびよーん伸長を、パレットナイフ旋回の動きで大きく回し、渦巻きした絵具の糸が「」(F100号)にへばりつき、絡みとったままの状態で固まった時の感動は未だに冷め止まない。

    さらにその12年ほど前ではダンボールで作った建造物を、セメダインの粘る糸で結び広げ、巨大な蜘蛛の巣となり、さらに巻き上げ網羅されたひとつの繭となるのがおさだまりだった。

    セメダインの糸が一端から良く伸びびよーんと谷を越え対岸に着地して橋を渡す。するとすぐそこで固まりだすのがこの接着剤。緊張の糸を伸ばし放課後の小学校で日が落ちても巻き続け、またさらに結び編んでいた。





    粘度が高いということでセメダインを想起させる手製の油絵の具だが、特筆すべき点は画質革命である。

    顔料とオイルを混ぜ合わせただけの絵の具であるから、したがって体質顔料を一切含まず、また単一顔料のみで作られているため発色が良く、彩度が高く、鮮明な色彩となる。そのため混色しても濁りにくい、ホワイト混色しても白っぽくなって狼色になりにくいのだ。

    幼生の気心に未昧(ふまい)さを思い返したのが好機となり、以後は手づくりの油絵具ばかりもちだす。しかし実のところ絵の具に対する不満を改良する昂奮などというのは書くことが発明である子供に、もの言ってもさっぱりわからないだろう。




    印刷の文化が人々の考え方や表現を変えてからは、絵の具を作ることが発明だとは誰も思わない。

    しかし昨年にこのような体質顔料を一切含まない絵具の新たな製品が世に出た。それが昨年に限定販売され理想的な油絵具の研究にして注目を浴びた、東京藝術大学&ホルベインの二社ブランド製品「油一」である。

    稀少で高価な折り紙付の「油一」と、お手頃だが目分量の調合で不安定な手製の絵の具とは比べ物にならないであろうが、
    いまのところヒビや割れ、シワなどひとつも起こっていない。乾燥が速く、定着がしっかりしているので(保障なし)、ブラック系以外はテレピンのみで大きく薄めても難なく使用できた。手製であってもそなりに、ソレに近いものが比較的簡単に作れてしまう噂のやり方を実施しているのが功をそうしているのだろう。

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  • 「ケモノヅメ」

    2009/03/26

    映画

    「ケモノヅメ」
    監督:湯浅政明 
    キャラクターデザイン:伊東伸高
    製作マッドハウス





    単独にして野原しんのすけはついに新興大人帝国へ進撃の歩を繰り出し、高々とそびえる最上階へむけて非常階段を必死の形相で駆け上がり続ける。これは覚悟をきめた突撃兵の全力疾走のモニターイメージというものを、単なる網膜像動画としてではなく知覚像動画そのものを有用した希有な名シーンとなった。

    アニメーター湯浅政明が手掛けたうちのひとつ「クレヨンしんちゃん大人帝国の逆襲」に用いられた知覚像的な手法に創意工夫がなされ、以降の映画「MIND GAME」(STUDIO 4℃)や「ケモノヅメ」などさらにもまして意欲作となっている。

    アニメーションの手法のひとつである知覚像、つまり

    (1)オプティカルフロー(集中線、効果線、移動線など)や、

    (2)大きさの恒常性をより知覚的に改造する遠近法をほどこす手法(望遠レンズの映り込み背景と、超広角レンズの映り込み背景など、遠くにある背景側のみにおいて異なる画角を矢継ぎ早に入れ混ぜるなど)や、

    また(3)搭乗撮影や流し撮影などにみられる画では動き続ける背景に対してもつ両眼視差による遠近法(近景、中景、遠景などを別々の空間を異なる速度で動かす)をさらに知覚的に工夫しているなど、

    他にも様々あるがこうした作画空間の中にさらに、最近の作ではこれらに加わったのが、光学的空間遠近法、それが実写映像との合成だ。

    アクションの動画のカットやまた風景カット、表情カットなども合わせ加工をほどこし、様々にまじえ、ストーリーの骨肉の争いに乗じて知覚象的実写を合成をするなどが実現されている。

    カメラ自体が走る、飛ぶ、落ちる、揺れる、激突するなどして、重力と力学的法則を伝えているVFX迫真映像にも精通する手法もふんだんに盛り込まれた、激走ホラー恋愛アクションエイリアン・・・・つまり今やオールジャンルと成ったSFとしての期待作である。


    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    続く

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  • 「ペツェッティーノ」書評




    「ペツェッティーノ」
    レオ=レオニ(Leo Lionni)著





    ほんとうに今の今まで疑いもしなかった。ええ年こいて未だ自由人気取りの独居族であるペツェッティーノは今、人生の際に立ちとても重大なことに気が付いてしまう。

    過去幾多の稚拙な振る舞い、その厚顔無恥を遺憾し真実を求めてホームグラウンド関西を離れ自分探しの旅に出奔する冒頭、いきなり自分という存在っていうのはどういうものなのか標準語で静かに語り出した。

    実のところ「私」という存在とは、「私」より小さな無数の部品によって構成されているのだ。したがって「私」という部品がたくさん集まり、より大きな集合体となる存在なのだ。

    つまりこうしたホロン構造のうちにあり、「自分」とはこのような都市高層ビルの何階層の次元かに入居している部分であるのだ、などどといってペツェッティーノは突然自答をし、それを杞憂など露程も感じず、その真相を追求する悟達の書をもとめて、すべての人々に究極の問いを投げかけ始める。

    未曾有の大不況のなかで親親戚兄弟その他どのような血縁とも縁なき衆生であるペツェッティーノはまるで判を押したような不思議ちゃんの様子を装って二者会談を申し出る勇ましい問答の姿、その一球入魂にして誰もが強く心を打たれる名作。素晴らしい絵本である。


    http://www.kogakusha.com/leo/leo008.htm

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  • ナイジェリアの現代の芸術  特別講義

    2008/11/13

    学校



    クリス・イクウエメシ講師を招いて、コンテンポラリー・アートを論じる特別講義が開かれた。美術学科の学生の出席はもちろんのこと、中村教授、関教授、西田教授、加藤教授も聴講に来られ日本語、英語の二カ国を交換することとなった。

    クリス講師はナイジェリアにあるヌスカ大学で美術のシニアレクチャーを務めている。「アフリカには200以上の言語が存在し・・・」とクリス講師。中村教授の通訳の立会いのもとはじまり、ナイジェリアには300を上回る数のエスニック・グループがあり多様な文化の多彩なコラージュなのだという認識を強調された。

    その後舞台はドキュメンタリー映像、スライドによる作家の紹介に移り、おおきな部族の内のひとつであるイグボ(igbo)族の伝統的な文化様式「ウリ(uli)」について述べる。「ウリ」というボディ・アートやパブリックなウォール・アートなどの様子が上映されると、関教授の通訳が橋渡し役となって現代の具体的なアート・シーンを学生に伝えた。

    スライドに映った絵のなかにはクリス講師自身のグラフィックな作品があり、興味を覚えた学生達からさまざまな質問が発せられる。ひとりの作家として応じるクリス講師からは、大量のドローイングや感情的色彩の感覚を持っていることなど普遍的な共通点が交わされた。またメッセージを有する作品というのは意識を交換する相対的なものである、と客観性の重点にも的を得て共感を生む。

    グローバルな交流において論旨はコンテンポラリーな認識を保持するということである。イグボ族は近代化の猛威により他の宗教の襲来や、伝承される文化的営みにおおきな被害を受けている。個人的経験や趣味性からみる視点から、同時代におかれているという視点にシフトする状況に置かれていることをあらためて実感することとなった。

    また以前にクリス講師は校内見学で洋画、彫刻、日本画の各コースをまわった。学生達は自分の感情を純粋に表現している。日本画コースについては特に興味津々の感想をもっていた。

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  • レスタミン的返答

    2008/07/14

    制作

    現行の製作に溢れ出す絵具の感覚を持ち得る限り、何者からも隔絶されてあっても、いわゆる情報のジャンクフードを相殺し、事態を白紙に戻すことを許すことができるのである。この「時間を無にする」という宗教家の寝言が、リアルな触感としてキャンパスと一体になる「無時間」といえることは、死の観念やエロスに対して抱く異常な関心事に似て非なるものである。このエロスとタナトス(死の本能)といった相反する衝動の分析や芸術の解体運動とともに精神的病理の表現獲得、社会的背景などといった「時代を反映をしめすものである爛熟した西洋藝術」から離れていくうちに「内部体験などをした認識」による儀式的生活である東洋思想に及び、またさらに思想の分裂は進み、体系的な写実や言語構築からの脱構築を許容し異なる人や文化、地域などのあいだを旅する作家の両義的な視点を求める声が大きくなった。藝術や思想などのルールや言語コンテクストの意味伝達は近代市民のさまざまな生活様式にはステレオタイプ的にも不相応であり、それにもまして棚に上げて壇上だけが現場だとは言えなった近代では、時代の個人に表現を帰し事態を生き抜く力の痕跡が作品となりえたのだ。「リアルな触感」はダミアンやミシェクのように現代の高い科学技術でビジュアルイメージとコンセプトの足並みを揃えた名作のみならず、ポロックのドリッピングや郵便配達夫シュヴァルの宮殿、ぺったりとスタンプのようにはりついたようなリキテンシュタイン、なにもかもがごちゃ混ぜに結合してラウシェンバーグの混乱、といったものはわけのわからない行為は人生や哲学が混乱した形式として現実味を帯びる。何の感動や共感もなくともそれぞれの生き方においてはどの技法も密着したリアルな行為に読み解くことができるのである。どのようにして人が芸術というものに規定されたがるのかはわからないが、商用のデザインや、一度の印刷のみで役割を終えるプリントものなどを除いては作品は積極的な交渉のカードになり、人類の科学技術の財産と比べられることのできない個人の完全にオリジナルな財産となるのであれば、「芸術作品であるという通知」はより円滑にするための付加価値のステータスなのだろう。

    冒頭で先述したように何のポーズも構えず、たとえ真っ白な状態をニュートラルとしていたとしても、意味を伝達することが役割である言語の模倣を自らに課すことより、言いたいことは自分の作品が代弁してくれることを選んだということである。記録自体は忘却することを許してあげるように機能するとして、私は喉の奥底の方で鳴き、喉の奥の方で怒り、のどの奥の方で悲しむものがぽろりとこぼれおちるように定着してほしいと願ってばかりだ。絵具の感覚を持ち得たときに現実から徐々に目を逸がそれていき、「おもいついてしまった」という執念や体系的妄想などは意識的に抑制している。こうしたことを言説しなければならい弁護の筋肉がついてしまったことには痒い所である。

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