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2010/11/05
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2010/06/01
写真アップしました。
http://www.creatorsbank.com/portfolio/works/?id=pachnoda&work_id=121328&folder=&page=2
ブログはこちらから。
http://threefold.blog.shinobi.jp/
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2009/08/03
2009年、宝塚造形大学のアートフェスにてちょっとしたイベントをします。
詳細は後ほど。
場所:宝塚造形芸術大学「本音のアートフェス」
期間:9/20〜9/21の二日間
HP:http://honne-artfes.com
団体名「大澤出力センター」
出典名「プリントクラブ」
そのため途中経過ですが、現在手がけている作品を少しアップしました。
大きい画像はこちらから。
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2009/06/29
こちらの作例は少しめずらしいものである。
何の変哲もないマツバギクの写真だが、どういうことかというと、
この写真の元画像はデジタルカメラで撮影されており、ピクセル数が約10000×10000pixel程の大きさだ。
画素数でいうと約10,000万画素の画像である。
使用したカメラは610万画素のPENTAX K100D。
レンズはFA28−70mm F4。
600万画素程度のデジカメで10,000万画素をとることはできない。
しかしながら何十枚ものショットを一枚に合成することにより、巨大画像データを作れるのだ。
今回は Adobe Photoshop CS4 での「photomerge」という自動処理で合成した。
CS4の処理機能は旧バージョンよりも驚くほど向上している。それによって完全にとはいえないまでも、一見して細かな描写までもを合わせることができた。
このマツバギクをよく見ていただければ、破綻している部分をみつけることができるだろうが、私は紙にプリントして、そこからさまざまな技法を用いた本番であるから、この程度で十分の合成である。
ちなみに驚愕の10,000万画素とは、写真プリントでは2メートルに引き伸ばしても高精細で印刷できる。
Photomergeはコチラ
新たに画像アップしました。
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2009/05/25
前回と同じくこちらも東京工芸大写真のうちの一人。
この方そのときの写真が魅力的で、
さらにフジフィルムのクラッセを持っていたのでつい声をかけました。
いいイメージが出るとすぐパチリと撮影。
前回のホソク
重複していますが・・・
透明な層が重なって、奥行きを喪失する際にはちょうど印画紙にアクリル板ガラス板の圧着に似ている。私はこの点をモチーフにし、そして光学的キメラのイメージによる光の偶像を再現している。
疑問をもたれるだろうが、印刷物にしろ画用紙に絵にしろ、フラットとはそれ以上奥行きが生まれないため、実はこのアクリル板圧着の感覚は、奥行きが「喪失」しているのだ。こうした点に着眼した地点からかかげたモチーフは「光」である。具体的にわたしたちの目に注ぐ大量の光を念頭に、油彩画とテレビを見比べてみた。
一見かけはなれたこの油彩がとテレビとの共通点とは、透明層をみつめるのだ。油彩がの方は最も奥からの反射してくる光をみている。しかし頭を振りながら両眼視差で絵までの距離を感ようと試み、実にそれらの距離感覚の知性化はだまされてしまい、あたかもフラットなポートレイトが本当にそこにいるような感覚に追い込まれていく。まさに前方の間合いが失われているメディアに古典的西洋芸術派は注目ていたのだ。
この油絵の点、物体を透層や透明な塊で包みこんだもの、それから得られる感じ方と、液晶などの発行するモニターを見つめる感じかたとの、これらの視認での比較をまずは投じた。
それらの結果次第では、発行するモニター画面と典型的古典絵画との、これら二つに関連する項目、有り得ないように思われるが共感する光の性質、これらに期待したが、しかしそれは、まあまあ。そんなことはなかったのだ。実際には前者が減光混色で視覚7万色以上、後者は屈折または乱反射と加法混色でありこれらはまったく異なるものであったのだ。
そういったわけで「光」をモチーフにするとはいったものの、油彩画を感じる正体が透明な層によるものだという、別な話になっていきいる。正確には「光学」と暮らす人々をモチーフにしているのだろう。うまく説明できないが、とにかく絵を作りたいと思う一心は未だ憧れとトラウマの胸中か。再認識スタートを切るために、こうした外的な助力(デジタル入力/出力)によって内面を変えていこうとしたのに。
話を元に戻し、そのうち主な調査のなかでいつも不思議に思っていたのだが、神話寓話民間伝承なんでもかんでも伝えられてきた物語の文化のなかに、このような「光」自体が明確な偶像になった事実には未だ通じていないことである。透明な光とはスペクトルではあるがもっともらしいイメージは何色だろうか。論理的にはわかっていても、
電球クン、あるいは漏電クンみたいなイラストは電力関係のキャラクター、あるいは街中の呼びかけポスターに実在する。がしかしどれもぜんぜんかわいくない。つまり「電気」あるいは「生活電気」など高い認識へ掲示しているのだろう。これがなんだか怒りっぽい感じの表情にみえてならないのだ。
雷のマークやデザインというのが、近づくと危険、または警告の標識にとりはやされ、一方「光」であふれていくさいは奇跡、光臨、天国、悦超、神、昇竜、巨大な存在感、幻覚体験などは、効果の程度は非常に大きな影響を与えるものの、奇跡シーンを照らし出す強烈なムード後光であり、形にならない。
おおまかにいえばつまり、光とは単なるエネルギーである。受け取る側にすれば、まさに情報のカオスである大量のビット数を、光学機器スキャナやカメラなどを入力として、構図、ピント、そのた創造的意図によって収めたり、スポット光で的を当てたりと、大量のランダム光の「情報を知性化」をするのみが現状である。
しかしすでに我々はこの眩しい光を日常ですんなりと理解できてしまっている。ここからさらに人体の驚くべきメカニズムを紹介しよう。
わたしたしが見ているものは、頭に伝えるために、実は目で情報を十分に知性化されている。
十分に知性化された情報については、最新のメカニズムでは眼球でまずランダムビット情報を「知性化」してわかりやすくし、そして大脳に送り出している。われわれ人は外界から皮膚、目、鼻、口などを通して大脳へ伝わる道筋をなしているが、そのうちの目は、なんとそれ自体で情報を整理したりするメカニズムを持っているのだ。さすが眼球。人体で唯一、頭蓋骨から脳が外へ出ちゃっている眼球。カタツムリの角みたいに、よっぽっど外界のことを知りたがっているのだろう。目がビヨーん飛び出ているヒトの絵は人類の進化をもろに想像してやまない。
創造的源泉であるこの自然宇宙光闇などは、むちゃくちゃなカオス情報であり、それらを「知性化」することによって作品となっていくメカニズムは芸術的本質と似ているが、脱構築したりする現代美術と非なるものであるため妙なところもあるが、カウンターカルチャーが「情報破壊」だとしたらまさに的中の行為ではないか。
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2009/05/12
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