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2008/03/27
カフェに立ち寄るのが、ここ最近の日課である。
秋ももう終わる頃の夕暮れ時は、
なんとなく物悲しくて立ち止まってみたくなるから。
熱くて濃いコーヒーは、からだじゅうに染み渡る。
リリは、白いカップになみなみと注がれたコーヒーに
目を落としながらふと小さな息をつく。
コーヒーは、ミルクもお砂糖も入れずに、そのままを味わう。
紅茶には,牛乳とお砂糖を2杯入れるのに。
コーヒーは苦いはずなのに、口を通り過ぎた後、
舌の上でかすかな甘さを感じるから。
カウンターのみの,小さな昔ながらのカフェは、リリの隠れ家である。
物静かな初老のマスターが、とても丁寧にコーヒーを
うっとりと眺めるのが、リリの好きなことのひとつでもある。
夕焼けの中で,琥珀色の液体がこぽこぽと音をたてながら
落ちていく様は、いつもあのことを思い出させては、
リリを幸せのなかに引き込んでいく。
今のように冬が始まる少し前の、ある日。
リリは銀杏並木を歩いていた。
黒いワンピースの上にニットのジャケットを羽織って、
芥子色のストールとタイツを合わせて。
世界中が金色に輝いているように思えるくらい、
銀杏の葉が舞い散っているなかに、あのひとが立っていた。
リリと同じ、芥子色のマフラーを巻いて、
黒のジャケットとパンツを合わせて。
金色の景色の中で、ふたりは目が合った。
たまたま、自分と色が似ているから。
どちらともなく歩み寄り,言葉を交わした。
これもなにかの縁だから、お茶でもしようということになった。
ちょうど寒いし、ちょうど足を止めたかったし、
ちょうど近くにカフェからコーヒーの香りが漂ってきたし。
申し合わせたかのような偶然が重なり合った。
そういうわけで、ふたりはカフェにはいった。
ふたりとも、コーヒーをたのんだ。
ふたりとも、何も入れずに飲んだ。
ふたりとも、コーヒーが好きだった。
ふたりとも、夕暮れ時はなんとなく物悲しかった。
ふたりとも、あまりしゃべらなかった。
ふたりとも、それが苦痛ではなく,
むしろその空気が心地よかった。
つまり、ふたりとも、波長があった。
お互い、何をしているひとか、歳はいくつだとか、
どこに住んでいるのか、家族構成とか,趣味とかを
聞き合うことをしなかった。
そういうのを越えて、今目の前にいる姿かたち、
そして、コーヒーが好きなことというだけで心地が良かったのだ。
生まれてから今まで身に付いたお互いの知識や、経験、価値観を
取っ払って、いっしょにお茶をしているという、ただそれだけのこと。
カフェにいた時間は、そんなに長くはなかった、と思う。
いや、とてつもなく長かったかもしれないし。
こんなに曖昧なのは、この季節は夜の帳がすばやく降りてくるから。
カフェを出た頃には、表は藍色に深く染まっていた。
銀杏並木は,あたりの店の明かりに反射された部分だけがきらきらと輝いていた。
ふたりは、並木道で向かい合わせになった。お互いの道に向かうために。
そのまえに。
ふたりはキスをした。
小鳥のような、お互いの輪郭を重ね合うだけの。
それから、なにごともなかったかのように、
ふたりはすれ違い、人混みに紛れていった。ただそれだけのこと。
リリはこの季節になると、芥子色と黒を身につけてコーヒーを飲むのだ。
引き出しの奥にしまってある手紙を、そっと取り出し、読み返すように。