揶白 (KF)

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揶白 (KF)

絵画

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    Works 46
  • 自分だけの世界が成り立ってしまう

     

     

    他者の認否を「ま逃れる。」ためには、いくつの手間が必要なんだろう。

     

    目的は世界であったり、宇宙であったり。

     

     

    花生けは、

     

    それらが、自分の手から零れる、素敵だろう。

     

     

    寂しい、しかし、何の寂しさもない。

     

     

     

    絵画は、キャンパスが大きいので、体を使うんだ。

     

     

    アーティストは宙に浮いている、そのことと、

     

     

    それらを理解しようとするだけに花がいる。

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  • 心で確認することも、ことばで確認することも、

     

     

    同じようなことだ、角度が広がるだけで。

     

     

     

    それが良いか悪いかは別。

     

     

     

     

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  • 顔のはなし

    どこでも人間をやめない、といった余裕がある。

     

     

     

     

    身体がまた精神なのだから。

     

     

     

    いくら体を伴うこと、言葉の一致だ、と口では云っても、

     

     

     

    海、空などをいくら思っても口をあけたら降りるというものではないし、

     

     

     

    「歩く」とはまず、重力に逆らって地面から体を起こすこと、

     

     

    向かう方向があること、だ。文章を書くことだって、いちいち直立している。

     

     

    私に降るのはつらい、とだけ言う雨。何よりも見知らぬ人間と急に会うということが

     

     

     

    あやしいから、心のいたわりとしても機能のあるブログを書いて居る。客観的なことは自分で整理すればいい、と私は思う。

     

     

    だから、精神が伴っていないと私に何か言う相手を拒む権利があるし、自分が弱ければ「へへっ」と思う。

     

     

     

    拒否を理解することが、思いやりと精神だけど、

     

     

     

    それがないのに、はじめから受け手ではないのに、我などと言い出すのは肉の固まりで、

     

     

    まだまだ夢の中。

     

     

    「優劣、優劣、優劣、優劣、優、劣」と、どちらも睨み歩いて、目的を見る。

     

     

    偶然や縁が必ず前提で、悪意について学習したとき、

     

     

     

    中国人のもしマフィア的な人だって、昔から全員が美味しいように、肉の焼き方を思考している。

     

     

    それに比べたら、妥協点が低すぎる。

     

     

     

    美味しくない、そんな純粋な感想が、趣向のより高いゲテモノについて、物珍しさに酔うのは「物」としてよりかは、

     

     

    人生について。経験としてのエネルギー。それを明かす。

     

     

     

     

    奥行きはまたそれを生むときに光り、「バッタ、コオロギ、バッタ、コオロギ」見分けていく。

     

     

     

    ゲテは、素朴だから、貧しいから強い味があるんだ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    許せないとおもって断絶なのかを受け取るのは自分にかかって、

     

     

     

     

    その精神があやふやで、

     

     

     

     

    それは単純に歳というものを知ってたり、それは上だからどうこうではなく

     

     

    そんな人にたいして含めた強さの理解力であったりする。

     

     

     

     

    強さの理解は、たった弱いと知ることで、力の外側に立つ。

     

     

     

     

     

    「強弱、強弱、強弱、強弱、強、弱」どちらも認めて、目的を行く。

     

     

     


     

     

     

     

     

     

     

    顔についてだって、

     

    感覚的に焦がれていることが、イコール興味がある、というわけではない。

     

     

    興味のある顔とは、もっと奥行きのある顔とは、理性を含有している。

     

     

    「顔がない」のは多い。

     

     

    顔とは、よく切り取った性的な対象として、浮いた、

     

    自分の事柄のすべてとして、浮いた

     

    そんなようではあるが、

     

    顔とは、身体なのだ。

     

     

     

     

     

    私の顔はすっかり空白に埋もれて居る。穴だらけだから、

     

     

    いやらしい。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    言わないこと

     

     

    ・優しさ

    ・縁がないこと

     

     

    自分と同一の、、と心の中は叫ぶ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 体当たりでないと

    生まれた時に戻りたい、と、ありもしない自分を求めて、


    人にたいして、一番怖いものになる子供について。

     

     

     

    「怖いものになりたい。」そう憧れにも思う。



    自分が感じる恐怖は自分のものなのに、我慢をしないで「誰にでも」なすりつけて押しどけていくから、


    人ではなくなって



    純粋なものに帰ることがなくなってしまう



    普段から軽いものばかり持っているから、柔らかくて優しい物ばかり噛んでいるから、


    いざというとき



    頼りない、へしゃげるし、ぽろぽろ零して見落とす



    寝ながら文句をいっている後ろから、


    「夏目漱石は、彼はなんて言ってんの?」と、私は漱石の文明論で堺に行った時のところ、


    本を一読して、




    体当たりで未来をみて、悩まんとしている男女がいた。




    何を言うんやろう?この人は。という人が周りにもいる。


    「いくら、自分はこうだといっても、いくら正しくても、



    型がちゃんと出来てるかやなしに、それは大切だけれども、」









    どうせ目が顔にあってあるのだから人は形式的で、



    日に日に中身どうこうを言わなくなってくる。



    それをいう人なんて限られていると知る。




    しかし、歳をとると、あるいは時間が経つと理解が出来て来る、




    故に、最後に希望があればいい。ト、声揃う。

     

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  • 身丈の是非

    あるものの大事さ。何かにおける、優位さというよりは、物事を解くだけの優しさなのだろう。

     

    幽霊を通して、私の記憶の中に本当に劣ったものを私が辿って、

     

     

    このように出来る。と、いう現在がある。その場合、如何にたたかったのかは自分なのだ。

     

    自分の優しさを認めて居なければ、

     

     

    リアルが重いものだから得意がられるのであって、あらゆる厳しさなどよりも、

     

     

    簡単に幽霊が劣ってるというだけのことだ。

     

     

    その点だけでは、身丈の是非にたいする反骨として、「色」を唱えた。

     

     

     

    部落にたいしても、弾左衛門という人が仕切って、この人は悪かったらしいが、関東の方であるので何らか丸く治まっていたのだろう。穢多非人ではあっても(人的にそんなことを思うんだろう)その子息など、屋敷のように広く固まって、動物の皮剥ぎなど、人の嫌な仕事をして生活をしていた。動物や、人なんかの死にたいして触るのだから、刀がどうばかりでなく、そういうそれなりの長所や精霊があるだろう。城は幸せかもしれないが、社会的にはやさしかったかもしれないが多くの武士も辛いし、お百姓はお百姓、人間ただで生きてないから色々わかってくる。辛いことばかりだから断念した恋もあるというのが現実にある、のが本当のことかもしれない。

     

     

    外側からの誤解について。

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