揶白 (KF)

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揶白 (KF)

絵画

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    Works 46
  • 他人をぱくりと頭から食べないように

     

     

    ショックな画像がある。

     

     

     

     

    自分の居場所じゃないから苦しいもので、

     

     

    それは場所を云うているのではなくて

     

     

    上でも下でも、

     

     

    上がったり降りたり、大変。

     

     

    頭を動かして

     

     

     

    自分に立ち返れると

     

     

    いづれもそれが上になる。

     

     

     

     

    魚には感情があるが、食べられる、 という概念がない為

     

    純粋でやさしい。

     

     

    「美味しい」と心が思うことが供養になる。

     

     

    自分を知らない人に押し渡す神経がわからない

     

    悪ぶって黙っていることも同じだ

     

     

    食べられるという概念のある人間に生まれたのなら、なにかされたらむかつきを

     

    抵抗のある感情を嫌でももっていなくてはならない

     

    それは感情とも違うけど、例えば怒りとは程遠いキモチだろう

     

     

     

     

     

     

    利用するほど手も足も退化して、

     

     

    優しくしてほしい、だとか

     

    生きてることの慎ましさがない

     

     

    星の光が、悪意を焼く

     

     

    あなたの輝きが、輝かないものをナメる

     

     

     

     

     

    自分で考えて欲しい。絶対に他人をぱくりと頭から食べてはいけない。

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  • おもいすごし

    言葉が、「わたしの自慢できるもの」として成り立たないか?

     

    誰しもが色んな失念をかかえていて、

    愛なんてわすれてしまった。

    愛する気持ち、この気持ちっていうのが妄想に近くて、目線が上からだから

    自分が思うのなら良いが、人にたいして浮ついている。


    大変だから、「道」という言葉があって

    近くのものはちいさく見えるし

    遠くのものは大きく見える

    だからかんたんにものごともじぶんも流れていく


    新しい自分、一番の自分として、

    いつも人の知らないことをずっと求める

    大人についていくことが、

    未知なのである。

    うまいことをいくら言っても、人がそれを洗って考えるのだから、

    結果的に何も残らないでいる。

    云いづらいことも教養があれば言葉にするが、

    最初に自分の言葉を立てておく人は冷たいが、「大変」なことがわかるからだ。

    なんで言葉が立つかというと、欲や人間のだらしなさについて考えてるからだ。

    水も若干のストレスも精神にとっては優しく、自分が利口にいれるのに、

    嫌いといって、パタンと閉じる。

    本を読むのをやめる様に


    自分のドラマを読むのをやめて、どんどんつまらなくなってくる。


    優しいひとは目立たないし、スーツを来てものを喋らずみかけのくたびれたあんなんが

    はるかに大人だったりする。

    私は老人とともにして、その高さほどの事を学んだ。

    「道」はもっとそばにある。

    即ち、色々いいたいことを抱えているが空気的なことで押し黙ったりする。

    その間中が孤独だ。

    寂しさを感じながら木を模すように、

    考えることを諦めない。


    出来ることとして、間違えてしまったことは自分の中に迎えて直す。

    五を立てるまで、自分の間違いと付き合う。

    大きな夢に伴う「意味」は、このように作らないといけない。

    正直が、かならずではないが、

    その内面はそれでないとこう思う事すら出来ない。

     

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  • 精神の労働

    2021/12/11

    神様の話

     

    過去として世間にそむくより、古いものとは自分が生まれる以前の先輩だから、じつは大切に思うべきではないか。

     

    「私の鏡」として、世界をかわいいかわいいと唱えながら持つ

     

    みよ、世界がこんなにコンパクトに!

    形さえあれば拘らない。

     

     

     

    未だに何の客観性を忘れようとしていない

     

    新たなこととは、受け入れて理解を深めるという道が見つかった。

     

    自分がいつも問題視し、周りが全然気にならないほど熱中しているのは「生きるうえでの疲労」。つまり、これからこいつをパートナーとして、長く付き合いたい。自身が自身の生薬になるまで。

     

    例えば神の声が聞こえて、みんなで一旦神の力を使って、穴の空いた頭蓋骨や、オーパーツ、軍人の埴輪、万能の力としてあったのだが、足りないのは願いと、それをつかむ理性だろう。それぞれが今後二度と使えない筈だから、大事にしないと。たとえば歳を取るほど、センスは良くなって向上する。洋服に触った回数が高いからだ。よれよれになるかと思いきや、宝石を手に入れ美しい道士のアイテムになっているかもしれない。その条件は、真っすぐな心をもつ。真っすぐな心をもつとは、これに変化するのではない。むしろこれにむけて努力する。自分をあらゆる方向から。ピカピカになるまでその中にいる身として、楽しいから、許されているのだ。これらって、どんなストーリーなのだろう?気になる。
    誰が考えたのか知らないが漫画、フキダシ、アニメ、想像の、馴染む。「禅は究極、ホンモノの方が格好良かった。」この決定にたいして私たちは納得を力ずくで買うのである。真の肯定にはまだ遠いが、近所が通い合って親しかった、仲間が緊張していた、生贄がじつは昔から存在しない、古来を含め、美を感覚的には誰でも理解しているが、急に態度を変える。それとは見えないものが多く、捉えず言葉が空気になってしまうことが多い。神との闘いの中っていうのは何かいつもほんわかストーリーである。二年程前から世界文化遺産になった古墳は、仁徳天皇。私の地元の神社にも祀られている。「記憶力」。きおくの削除を要しているのは幽霊なる悪党のみ。これが、神でさえ騙される。

    「パソコン上で」たとえあっても、実生活の態度に立ち向かおうとする。気を取り戻すなかで禅を加えたい。

     

    精神が明るいこと

    それによって常に自身の見通しが利くこと

     

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  • 大きなもの、小さなもの。

    出来ないひとを2年は待つこと。

     

     

    若い人を育てる大変さとはすべてがここにある。

     

    すぐにパタンと閉めて、起こり得るドラマもストーリーも綴らない。

     

     

    憧れや夢を考えた時、


    思ったより、自分が不安を感じて居る事に気付く。

    いつもは文学的に夢中で、そこの気持ちを、から逃げる事が出来たんだと思う。

    人は、緊張するが、関わることが不安なのではない。


    真実は時に、リアルでもないと、よく思っていたのだが、


    火が自分に灯った場合、太陽の方に向かうほうこそ

    その夢を叶える時間にリアルを感じる。

    現実的でないのは、自分がはげしい赤色を持っているのに、

    青、という(地球の物質として)少ない色、を自分に持って帰ってしまう

    がめつさが自分に存在するからだ。


    この感情!「私」の中の最も若い自分として

    嫌うこともなく、誰しもが陥る失敗について知者となるべきだ。

    子供に「ちゃんと」偉そうにする為に、答えるために。

    受け入れることなんだと思う。

    大人の背をみてもらえるように、ちゃんとした未来が自分に降りてくるように。

     

    人を愛すのが自分だからそう願えば、信じれる、信じている、と云った心が成り立つはずだ。



    叶えるのは月人(つきびと、かれし、あいて)ではない、

    夢とはきっといのちなのだ。

    好みとはきっといのちなのだ。



    自分の主体がずれていて、客観性が最近つかめなかったわけが、真のリアルを通して問題を噛む。

    問題は、

    白か黒のほかに色彩があって、

    解きにくい。



    自分を悪く思うことが、不安なのではなく、

    夢を見れなかった。

    自分の内部にある夢なら、夢について考えることと、

    希望として為すことが、

    「夢を叶える」という意味だ。


    夢は、叶えるものじゃなくて見るもの、だとは、

    現実ではない空(ゆめ)だからだ。

    なにがどうなんだろう? と想像を膨らませて居るときこそ、

    頬杖をついたたのしさほど、人間のリアルとしての佇まいが有る。

    絵を描くときはこのポーズが好き。

     

    めちゃくちゃ繊細な芸術は、わたしの様にぼろぼろでは絵画を仕上げることが出来ない。

     

    本当にショックで、リハビリとして歌を練習する前

     

    歌、絵画、恋人、皆取られた。とスサノオの歌を聴いて居る。歌手の方、聴こえるだろうか。









    問題を解消するために、質問をしなければいけない。其の為には、

    なにがわからないのかわかっていないといけない。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    滑り防止に、

     

     身体(こころ)の動きにたいして忠実である能は、

     

    ヨガのようなもので、学しめることが、あらゆる苦しみにたいして働きかけるようになる。

     

    世阿弥は風姿花伝と云う美貌の書を書いた能楽師だが、

     

    まことの「花」は二十代では咲かない等とのことを記していて、

     

    年齢感覚のずれが、世間には存在する。

     

    つまり若さ、珍しさにたいしての

     

    憧れどまり。これが、一般的です。

     

    色界と云って、未だにその精神が「目」にあること。

     

    眼、精神とは、その土地の感覚であるから、自分たちは能も文化も触れて大事にしないと。

     

    古文の読み方について、いつか書きたい。

     

    また、これを「くさくならない様に、埃っぽくならないように」持つ、持ち方が、

     

    研磨、磨いていくものとなります。

     

     

     

     

     

     

     

     

    「大きなもの、小さなもの。」

     

    切なく吟だけで、きみは満足して

    そのあとほったらかされること





    私は歌がすきだ。歌っていると全然疲れない。自分で歌詞などを手掛け、

    将来は街シンガーに為って、巷のクラブで軽快に

    らいぶが出来たらすてきだと思う。

    しかし目にものの世界であり、確定できるものが今ないので

    言うことすら辛い、

    人よりやる気がある。




    私は「夢を見る」資格はある。

    それについてやる気がある、というだけで

    資格の条件を満たしている。




    今付いたり消えたりしてるが、「火」と成ったこの気持が私には「色」にしか見えず。

    限りなく透明だ。と、云うそんな歌を作りながら、

    時間なんて過ぎていくだろう。



    だから、来い、というよりは、


    来てみろ。


    音楽から、正しめと己を、という曲を聴く。





    大きなものとは、遠いもの。

    小さなものとは、近いもの。


    大きなものには重力があって、

    吸われないように、猫がトラックをめがけるように。

    認識して注意していれば、理解が出来てきます。

    とらわれないように、

    自分や、自分の経験がおもしになる。



    「祖」は、祖のすることは、今生きてる自分たちがこれを考えるのに関係がない。

    百年、千年、

    釈迦族とは、末法に生まれて来る約束をする、

     

    大きなものにたいしては、それなりに夢を叶えていかないと

    それでありがとう、と云う言葉も一苦労する。

    私はもう少し丁寧に書いてみたい。

     

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  • 平和

     


    底抜けに明るい気持とは、

    私の風にいつも、重い石があって、

    重石は、わざと置いていたのではなく、

    ただ置かれていたことです。

    それらは正しかったのですが、

    間違っていた理由が「存在しないもの」、として最近思い出されて、

    ですから誰も語れず、きまずさをうたいます。



    考えてみれば、「霊、人間の霊」とも異なった、ゆうれいの存在が私には新しく、新輝として、

    「悪さをする」ところが、人と違いどんなものだろうと思う視点で。

    知れば、不幸が原因でもないからマリアよりもずっと不思議な卑しさ。

    醜悪、という言葉は美しい。このことを日ごろ考えて居て、

    自分のテーマでもあるから、整理して幽霊などに割り当てれず、何か重なってしまう想像。







    同時に真逆である大蛇や、精霊の美しさをみるので、

    仏のきっかけが、何であったのかは、

    私は、国法の字のすばらしさに愛着をもち、

    要は「全員が文化的に生きなければ。全員が平和を求めなければ。」


    だから、「私」は

    いままでのことを、起こり得た

    私の知ってる災いとして

    軽く、美しさと呼びます。












    飲まれないで生きてるのだから、儚さがないというか、

    散らない不気味な花の様にも思う。政治は精神にたいして無知だから占いをおこなう。


    遊びが在るのに知らないと、質を云われると、

    それが高さではなく、崇高なものではなく、自分の生活におく上下の知識なら

    「顔」も単なる使い捨てのものとなるだろう。

    物静かに、捨て身の覚悟を当然として、世に継ぐような

    室町の次は、幕府をちゃんとまたいで戦国時代。戦いと云っても、内面は「計画」や「設計」なのだ。

    かつて一度もなかった三百年の平和(えどじだい)を作ってしまった。

     

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