1万8000人の登録クリエイターからお気に入りの作家を検索することができます。
2012/07/01
http://www.fengfeeldesign.org/print_pub/
プリパブにしては、あか抜けた話題を1つ。というかプリパブ的には、なんでまた!?な話題を1つここで書きたいと思います。我が盟友、もしくは同志の(勝手にお互いがそう呼び合ってるだけw)野口さんが本を出されました。野口さんは、あの紙ラボの野口さんです。僕との接点はそんなにたくさんではないです。会った事も1度だけだし、そんなにメールもしないのだけど、なんか、そういう気がしない不思議な人です。ああ、やっと居た、助かった。というのが最初にコンタクトした時の正直な感想です。今ではすっかり増えたのだけど、当時、確実に僕の廻りには居なかったし、野口さんの廻りにも居なかったのではないのかなあ。まさかこんなに増える(まだまだ少ないけど)とは考えもしなかったです。増えた、というよりも、この本が出た時点で、スタートした時点で、そういう流れにある状態になっただけでも奇跡、みたいなもので、その奇跡の一旦を担ったのは、まさしく、野口さんであったのではないかと思います。見事に印刷の世界を変えたし、これから変えていくんだろうなと感じさせてくれる一冊。久しぶりにこんなに本でドキドキ出来て良かったです。本の感想なんぞは、他のちゃんと人が書くからいいとして(笑。とにかく、ここから!一緒にやろうぜ!&スタート地点なんだぜ!という気持ちに溢れた素晴らしい本でした。これに関しては、当初から方針変わってなくて読んでてじんわりした部分です。そうそう、この巻き込む感じいいねって感じ。それがちゃんと本の文章の説明の仕方にも出てた気がします。PRINTGEEK01もめちゃんこ面白かったぜ!プリパブ会員へは10年後くらいに誘いたいと思います。なんかでも、そういう感じなんだよ、マジで。あくまで盟友。負けてらんないぜ。
野口さんの最近の動向
「Play Printing」というオフセット印刷に関する本を出しました。
http://www.facebook.com/BNNplayprinting
アマゾン
http://www.amazon.co.jp/gp/product/gp/product/486100814X/
ホームページ
http://yohaku.biz/
PRINTGEEK
http://printgeeeek.tumblr.com/
2012/06/13
フェイスブックページあるよ!
→花形装飾活字を愛でる( http://on.fb.me/NbOQVf )
→PRINT PUB ( http://on.fb.me/KzM5Fn)
よろしくね!
2012/06/12
{リンク:http://nishitanaberecordkai.blog130.fc2.com/blog-entry-58.html
}http://nishitanaberecordkai.blog130.fc2.com/blog-entry-58.html
Mujika Easel
http://www.mujika.net/
Love & Realism
http://www.mujika.net/saito/Love_and_Realism.html
どんなミュージシャンでも、たいてい1stアルバムの出来というものは非常によいものです。デヴィッド・ボウイとかボブ・ディランとか、逆に1stアルバムだけなんのこっちゃわからない、混乱の塊のようなものになってしまっている人も中にはいるにはいますが、どうもたいていのミュージシャンの人というのは1stアルバムを出す前に、出す前もずっと音楽のことを勉強したり真剣に活動したりしていて、その延長線上として満を持してアルバムを録音するようで、よく「1stアルバムはそれまでの人生の蓄積、あとのアルバムはただそのアルバムごとの間の時間だけの内容しかないから1曲を作るのに時間のかかる人ほどアルバムの間隔が狭くなればなるだけつまらなくなる。」と言われるように、まあたいていの場合、1stアルバムというのは「結構いい」か「その時点でどうしようもない」かの2つに分かれるものだと考えていいと思います。というかそういうことにしないとこの文章を書き進められないんだ!!
今回このMujika EaselのCDレビューを書くにあたって、僕はいったいどういうところからこのアルバムを掘り下げていったらいいものかたいへん悩みました。
ふだんアマゾンなんかにレビューを投稿するときは音楽なんてまったく聴かずに、あるときはもう何年も前に手持ちのCDを売ってしまったようなアルバム(The Shiningの「True Skies」とかね!!)をささーっと、キーボードでこんなもんだろとかたかた叩いてはい投稿、クリックぽちぽちみたいな感じで終わらせてしまうことがたいへん多いのですが、このアルバムについては一切そういう手法が通用しないという感じがあって、もうほんとに生まれてはじめてかもしれないくらいの経験なのですが、なんと散歩しながらメモ帳に気付いた点を書き込みながらレビューを作っていくという、前代未聞の労力を割かなくてはこのアルバムのことは皆目見当がつかない、という感じになってしまっていました。
普段こういうジャンルの音楽をあまり聴かないということもあるのですが、なんといってもこう、このMujika Easelには「こういうジャンル」といった中でもさらに異端な、なんともこう記憶にとどめてそれを分解しながらテキトーにキーボードをカチャカチャ叩いていくというような感じではとてもレビューなんて書けないだろうハードルの高さ、音楽の難しさのようなものがあったのです。それで僕のメモ帳はいろんな言葉で埋め尽くされていきつつも、ちっとも本質そのものはつかめないという、なんとも情けない状態でだんだんと真っ黒になっていきました。
しかしこの「Love & Realism」を100回くらい聴いたときのことでしょうか。(まあそんなに聴いてないんですけど、頭の中で思い出したりする回数も含めるとそれくらいいくんじゃないかと・・)唐突に、それまで頭をかかえてうーんうーん言っていたのがまるでうそだったかのように、ほんとびっくりするくらい唐突に、一気にああそうか、別にこれジャンルがどうとかいう音楽じゃないんだ、ということが判明したのです。
この「ジャンルがどうとかいう感じじゃないんだ。」感というのはものすごく説明が難しい感覚なのですが、同時にこのアルバムを1回でも聴けばたちどころにわかるくらい簡単に音楽の隅から隅までいきわたっている感覚で、1曲目のイントロのピアノからもうすでに、そういう音楽が始まっているなということが、そういう感覚の耳で聞いたらたちどころにわかるようになっています。しかし一方でジャンルとかそういう感じの音楽ではないといいつつも、この音楽がものすごく外に開かれていて、同時に内に篭りまくってもいて、両者のバランスの中であっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返してのたくりまわっているような生命感を感じさせるのは、これぞまさしく「1stアルバム感」、この文章の最初のほうに書いた、Mujika Easelの「それまでの人生の蓄積」の爆発に他ならないからだと思いました。
そう!Mujika Easelは別に、ジャンルのある音楽をやっていないというだけで、別段何か特定の音楽のジャンルのミュージシャンに限定されるような音楽性を持っているわけでもないし、そういう界隈特有のファッションセンス的なオシャレ感を演出したがっているわけでもなかったのです。Mujika Easelというのはただただここに録音されている音の響きの1つ1つのことで、それ以上でもそれ以下でもなく、本当にどこまでもびっくりするくらい純粋にただそれだけ、ただそれだけ十段みたいな感じで、おそろしいくらい純粋無垢な音楽だったのです。
もちろん純粋無垢な音楽と一口にいったところで、別にそれは聴後感がクリスタルガイザーがぶ飲みしたあと並みたいな感じだとか、そういうことではありません。なんかこう、僕は素人なので楽器のことは全然わかりませんが、ピアノの演奏もこうぐいぐい心に迫ってくるものがあるのでたぶんうまいんだろうし、歌も同じく綺麗な声だなと思うことがあるのでたぶんうまいんだろうと思うのです。
こういうボケボケな脳みそで音楽聴いてるからたぶん感想が「別にジャンルジャンルしてないだけで、普通にいい音楽」みたいな無意味なものになってしまうのだとも思いますが、どうやらMujika Easelという人はちゃんと発声の勉強とか、楽器の演奏の勉強とかも1つ1つちゃんとこなした上で、その上で決められた(or作った)音楽を演奏する・歌うというよりは、自分のフレーズ(ある種の手癖的な一定の決められた動作の感覚と間合い)を自分で弾いて自分で歌うという、本当に技術があって初めて出来るとともに、おそらくそれをするための技術を習得していく際に技術に淘汰されてごっちゃになって消えてしまうのではないかと思えるようなもろい本能的、先天的な感覚でもって、自分の脳の中にあるそういう音楽というよりはフレーズ、手の動きや声帯の動かし方というようなものを録音して音楽の形に作り上げたのではないか、というふうに思うのです。
おそらくこのアルバムを聴くときに多くの人が感じるであろうどことなく即興っぽいところとか、無意識っぽいところというのは、そういうのが如実に現れたところなのかなと思います。反対に「Foolish Woman」など、あきらかに曲を意識して作られた曲の中にはそういうものはあまり感じられない反面、どこかそういう歌を歌っている歌手になりきって遊ぼうとしているかのようなMujika Easelの姿が垣間見られて、なんだかそれはそれでおもしろい、動機的には変わらないものがあるんだろうなというふうに感じます。
Mujika Easelの音楽が「別にジャンルジャンルしていない音楽」だとわかったときに、もう1つ気がついたのは、たとえ音楽の演奏者がそういう音楽を目指していたり体現できたりしていたとしても、できた音楽はその演奏者の選んだ楽器や音の感じなどによってファースト・インプレッションは特定のジャンルのかたちで伝わらざるを得ないので、どうあがいても第一印象や、その演奏者がスタイルをかえない限りはそれ以降ずっとその人の印象は、ある特定のジャンルの中に納まってしまうということです。
よく考えればMujika Easelは「ジャンルジャンルしてない」と形容したものの、同じようにへヴィメタなのにフォークソングをデス声にしたような歌しか歌えないようなバンドや、現代音楽的な感性の持ち主なのに表現はすべてSSW的な領域にしか落とし込めないような人はたくさんいます。それは演奏力がなくて、自分のイメージしている音楽を表現できないからこういうかたちになった、という意味ではなくて、本当は○○のような音楽をしているのに、自分は××のような音楽をしていると思っている、的なことです。そしてまた、本当は○○のような音楽をしたいけど、それを表現する手段が××という音楽しかないから、(それが一番近いので)××のような音楽をしている、という感じの人もいます。Mujika Easelはおそらく圧倒的に後者の部類に属するミュージシャンなのではないでしょうか。
そう、この「Love & Realism」を聴けば聴くほど、深く響くピアノが、旋律やほかの雰囲気彩り楽器が、一瞬、ふっとMujika Easelのボーカルとは全然関係ないところで、自分勝手に鳴っているかのような錯覚を覚えるときがあります。Mujika Easelの音楽と楽器との関係が乖離する瞬間というか、そういうものがあるのです。僕はここからMujika Easelは本当はこんな音楽をしたがってるのにできないんだ!!みたいな、AKBのファンみたいなあほあほ発言をするつもりはありませんが(というかこの文章全部僕の妄想だし・・)そういう観点からこのアルバムを聴いていくと、そういうMujika Easelの思っている音楽と実際の演奏されてる楽器や歌との間の距離の乖離というものが感じられて、ついにはそこに70年代の初期パンクスの演奏力とイメージが乖離しまくっていて取り返しがつかないぜ、みたいなパンク的なものさえ感じられてきます。そのパンク的な勢いが、きっと上述した「1stアルバム感」というものの形成にも付与している感じがしないでもないですが、なんか聴いててそういう、パンクのアルバムだなと思う瞬間も時々あるのです。
ではそういうジャンルジャンルしていない、Mujika Easelの「Love & Realism」とはいったいどういう音楽なのでしょうか。
一見旋律があるようで旋律がなく、歌があるようで歌がない。打ち込みのエレクトロニカを人力でやっているような趣があるとともに、クラシックの室内楽の独奏を隣の部屋で聴いているかのような感覚にもなります。トム・ウェイツの1stアルバム1曲目に近いものを感じるときもあれば、Aphex Twinの『Druqks』に近い冷たさを感じることもあります。ビョークにもスティーナ・ノッテルダムにも似てないと思いますがどことなくマヘル・シャヘル・ハシュ・バズや工藤冬里周辺を彷彿とさせる瞬間もあります(工藤礼子『夜の稲』はこれの対極か同じようなところにあるアルバムだと思います)戦時中のナチス社交界で流れていたかのような哀愁ただようワルツを聴いているような感じもするし、「ふるさと」ばりの童謡を聴いているかのような感じになるときも、ギターのかわりにピアノに持ち替えた女性アシッド・フォークシンガーのアルバムを聴いているような感じもします。ゑでぃまあこんの『あおいあしおと』や一部メンボーズ、二階堂和美とまではいかないけどそこらへんに近い声や音の質感を得ることができます。どちらかというとカラーの世界という感じがすごくして、澄んだ空気の透明感や、初夏の早朝のさんさんと太陽のふりそそぐ感じというものがあります。歌声の風通しのよさにはなんだかJ−POPの最末端を聴いてるような感じにもなるし、フランスのセルジュ・ゲンズブール的なものに耳をかしているような感じがします。全体的に平成というよりは昭和か90年代初頭を感じる音楽で、夜眠る前よりは朝起きるために聴きたくなるようなぴりっとした緊張感があります。クラシックでもなければジャズでもロックでもなんでもないけど個人的にはパンクっぽいものを一番感じます。バッド・レリジョンのボーカルの人が作ったアコギ1本のカントリーカバーアルバムのジャケットを見たときにイメージした音の感じと微妙に近いようなことをやっています。(ちなみにそのアルバムはちゃんと聴いたら機械加工されまくった人工糞カントリー音がゴミみたいにウザい大駄作で、バッド・レリジョンを聴かなくなるきっかけとなった作品です)XTCのアンディ・パートリッジが性懲りもなく出し続けるXTCの未発表スタジオデモ音源集で聴ける『Skylarking』のアウトテイク集のような風情もあります。ラグタイムやロカビリー、カントリーにブルーグラスの要素も感じないでもありません。
Mujika Easelの音楽はそのような音楽です。
つまり聴く人のそれまでの音楽経験によってどうとでもその人それぞれのものの感じ方で形容詞を変えられる、それだけ明確に「ギターがカッコいい」とか、「ピアノのへろへろな弾き方が最高」とかいう言葉では終わらせられない、そういう楽器発ジャンル経由の音ではない、ということです。
まず楽器よりも何よりも先に動作とかそういうものがあって、それが楽器を通じて音になって耳に届いてくる。その音1つ1つの音色や音響がそれぞれ1曲としてCDのトラック分けをしていいくらいまとまっているようでブッ散らかっている、そういう自由で色彩豊かな音楽です。もしかしたらMujika Easelはよくいう「共感覚」の持ち主かもしれません。いや、たぶんそうだ!!そうなんだ!!だから聴き手によってその音の1つ1つの響きでもうジャンルが違うし、だからそれをまとまった曲や音楽の形として伝えられると形容詞がみつからなくて誌的な言葉でようするに「やられた!」という文章をそれっぽく書くか、何を書いていいかまったくわからないからとりあえずオシャンティー文章の最後にそっと「あなたの日常にMujika Easel。」的なことを書くしかなくなってしまう。それくらい1つのまとまった音楽だろとたかを括って挑むと大怪我をする音楽です。音楽というよりは仕草に近いものなのかもしれません。
たぶんコードで音楽を作ってる人や、録音がどうこうとかボーカルがどうこうとかいう人は、きっとこの人のようなかたちでは音楽に向き合えないと思います。もはや録音されたもの、演奏され、音として野に放たれた音としての音楽が好きな人では、このMujika Easelのような、音よりも前、くらいの段階から音楽をはじめているような音楽にはなかなか到達できないことかと思います。ヘタウマという言葉がありますが、ようはあのウマ味というのは、その演奏者の腕の動作がそういう音に直結しているというのが根本の原因にあります。ダイナソーJrのギターの人の音は極論を言うとダイナソーJrのギターの人の体の動きなのです。そしてMujika Easelの場合は、その動きと音との関係を自分の中で完全に掌握してしまっているような感じを受けます。だからいちいち音楽は感情的だし、ものすごくシンプルな意味で一音一音に感情が篭っている。こういうのって普通死にかけの黒人のブルースのおっちゃんか、アフリカかどこかの意味不明な民族楽器をありえない高速度で奏でてほがらかな癒し系サウンドをかなで続けるようなおっさんしかできないようなことだと思うのですが、どう考えてもMujika Easelはこういうジャンルレスな音の世界の中で、ある程度の作りこまれた雰囲気こそまとってはいるものの、そういうアクロバティックなことができてしまっている・・。なんというかこのアルバム、「Love & Realism」はそういう意味でほんと奇跡的な1枚だと思います。とにかく、ありとあらゆる音楽に聞き飽きた、と堂々と自称できる方にこそ聴いてほしい音楽です。ジャケットや見た目は堅苦しそうな、いかにもマニアックそうな音楽ですが、聴いてみるときゃりーぱみゅぱみゅよりもずっと聴きやすくて、親しみの持てる音楽だということがわかります!!
※あとこのアルバムは、ジャケットもイイ!!4面見開き(こういう言い方でいいのだろうか・・)で、一度パッカーンと開いたあと、もう一度縦にパッカーンと開くというナイスな仕様になっています。そしてパッカーンと全部開いた右のところに歌詞カードやライナーが、中央にCDがどーんとあるという仕様です。そういう細かいところへのこだわりもグッド!!
※CD、音源は以下のところで買えます!!(ジュリアンレノンのときもこれ書けばよかった・・)
Shop
http://www.dear-air.com/shop/lnr.html
itunes
http://itunes.apple.com/jp/album/love-and-realism/id319230665
Amazon.co.jp
http://www.amazon.co.jp/Love-Realism-mujika-easel/dp/B000EIF8O6/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1339151333&sr=8-2
HMV
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1393520
たぶんこれ以外のところでも買えます!!以上久しぶりの長編レビューでした!
2012/05/24
http://www.fengfeeldesign.org/print_pub/
http://www.mujika.net/
この音を作っている人はどういう人なんだろう。かれこれ10年くらいずっと聴いていたけれど、それがホント分からなくて&いつもなんかこう節目というか、作業の最中、というよりかは、帰ってくる場所みたいな、そんな存在でした。最近、会う機会があって、ふわわーっていろんな謎が一気に溶けた感じがして、でもまだまだ、もっともっと会ったり喋ったりしないと、それが形になっていかないんだろうなという実感もありつつ、せっかく会えた事だし、やっとMujika Easelの事を紹介出来るなと思いました。なんでまた、PRINT PUBで音楽の事を!?な感じなんだけど、音楽の事を分かっていない僕が、タラタラとレビューなんぞを書くのは小門違い&恐れ多いし、それは同時に本人に伝える事になるだろうから、でも、そういうのは、出来れば直接会って伝えたいなと(何書いてんだか…。でね、先日、お会いした時に案外盛り上がった話しがあって、それは多分、ここで書いた方がいいのと、こんなに素晴らしいアーティストが居るよ!っていうのをダブルでお伝え出来るし一石二鳥じゃないかという事で、実は、ご本人様に会員になっていただきつつ、是非に彼女のMujika Easelの音楽に触れて貰えたらなと考えております。Mujika EaselのCDはジャケットがもの凄く凝っていて、以前に一度、相談を受けたのだけど、あの時の僕では多分、それを成就出来ないなというのがあって、お断りした経緯がありました(先日会った時にかなりの平謝り…。それくらい、たかだかジャケットなのだけど、中の音源が滲み出ているような、魂の感じる工夫が凝らされていて、それらをご紹介する中で関節的にMujika Easelの魅力を知ってもらい、サイト「 http://www.mujika.net/ 」に全てが書かれているので、是非に一度耳にして欲しいなという意図をバラしつつ進めていきたいと思います。まず、お話の中で一番に印象強かったのは、その全てが「内職」で行われている事です。会員様の中にも、この「内職」を経験した方というのはおられると思いますが、なんとアーティスト本人がそれを「内職」し完成させて→納品というプロセスを踏んでいたというものです。しかも加工数が何十とか何百ではなく、1000枚単位でそれを行っていたらしいのですが、その上に、本人が直接、印刷屋さんに足を運んで交渉しつつ話しを進めるなど、その熱意に驚かされたというか、自分の作ったものに最後まで責任を持っている事に凄く感動をいたしました。ちゃんと「竹尾の見本貼店」に足を運ばれて紙を選ぶとか、デザイナーいらないんじゃ…という行動を起こされていたんですね。僕は、この話しを聞いた時、感動と同時に反省の念を覚えました。デザイナー何やってんだこんにゃろ!みたいな。Mujika Easelの廻りにMujika Easelが満足、納得のいくようなデザイン、印刷が相談、頼める状態に無かったって事だよね。金銭的な問題を通り越して、なんかこう、ああ、しまったなあ、という気持ちでいっぱいになりました。僕個人としては、この状態というのは、Mujika Easelだけの話しではなくて、ほとんどのアーティストが同じだと考えています。つまりデザイナーとアーティストが近く無い。デザイナーが圧倒的な商売人に成り果ててしまっている。こんなにもアーティストが熱を帯びて作っているのに、デザイナーは何やってんだ!と居たたまれない気持ちでいっぱいだったりします。印刷や折りは加工でやって貰いつつ、「内職」で両面テープで10カ所くらい自分で貼り合わせるとか、既製の封筒を「内職」でクシャッとするなど…etc。ホント、デザイナーは何をお高く止まっているんだろうと、お話のなかで色々と作る事への情熱というか、到達したい地点に、なんとしても辿り着こうとする意志みたいなものは、そこらへんのデザイナーには到底真似出来ない強さを感じる事が出来ました。こういうのってホント見習いたいです。僕は、グラフィックデザインは音楽と密接に関わるべきだと思うし、お互いに引率し合う存在であればなと望んでいます。今回、Mujika Easelとの出会いはその思いを強くする意味でも大きかったし、是非、そんなMujika Easelとfengfeeldesignでなんか一緒にやれたらなという思いでいっぱいになりました。そして、音楽をに耳を傾けてみてください。グラフィックデザイナーは、音楽家やその他の形にしたい人の印刷や、それに伴う加工、の良い翻訳家でありたいと願うばかりです。
2012/05/13
http://www.fengfeeldesign.org/print_pub/
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.310242865722466.73313.100002102656640&type=1
紙様こと紙で作った文房具をやっとこさ見る事が出来ました。場所は大阪のペーパーボイス。「東京製本二世連合会」の30周年記念をきっかけで作られたそうな。1つ1つのアイテムの解説の前に、まず、これが作られた事の奇跡にまずは賛辞と拍手を贈りたいと思います。もっとこういうのやったらいいんだよって、心の底から思うし、こういうのが、もっともっと知られるべきなんだと、PRINTPUBは小さい声だけど、ここで全力で掲載します。それくらい、加工の技術が凄いのと、新たな発見がいっぱいあったりと、まず、見て損は無いのだよね。先に書いておきますると、平和紙業のペーパーボイスの大阪、東京で両方で見れます。見る時は予約が必要との事で、大阪の場合はフクダさん、東京の場合はニシタニさんに言ったらいいみたいです。このキーワードで分かんない場合や、紙の代理店とは関係を持ってなくて、頼み難いとかだったら、大阪でしたら僕経由でもお願いしまするので、声かけてもらえたらと思います。いや、マジで一回見といた方がいいと思います。なんか作ってる時のやったるぜワクワク感がスゲー伝わってきて、こっちまで、なんかやりたくなるのと、なんというか、知らない加工と加工屋さんの名前が、いっぱい分かって、頼むぞー!ていう感じになります。大体、製本屋さんとかあえてここに!ていう事なんてそんなに無いしなあ。きっと知らないだけで、製本屋さん毎に得意分野とかオンリーワンな技術とか絶対あるもんね。そういう片鱗だけでも味わえるというのは、刺激的で良いと思います。モノとしては、鉛筆、消しゴム、クリップ、定規、筆箱、メモ帳、製本自体にも色んな技と工夫が使われていて、大興奮です!(ちなみにfengfeeldesignの実家は文房具店ですw。まず、鉛筆ですが、これがまた面白い!黒鉛に新聞紙をキュウキュウにクルクル巻きにしているという一品です。僕はこれが一番気に入ったんですが、もったいないけれど、色んな紙でそれやったら面白いだろうなあと感じました(クレーンレトラとか…。それが鉛筆である事も面白いのですが、巻くという技術は新しい表現にめちゃくちゃ使えるような予感です。
2011/03/22
http://www.fengfeeldesign.org/
地震前と地震後の大きな違いは、
地震以外の話題が無視されている事。
そしてそれ以外の話題は耳に入らない事だと感じています。
何が正常か、
という話は今回は置いといて、
果たして、
ボク達の作った作品が今まで通りのニヤニヤ感で見てもらえるのかという点が、
なによりも判明していない。
何故なら、
皆がマジだから。
変な事したらマジで反応してくるっていうw
今はそういう時じゃないから!っていう大人が子供に叱るような目線を送ってくる。
うううう、なんかつまらんのー。
結局、静かに遊ぶか、
無視されるのがオチなこの状況!!
だって、あの仕事中にプラモデル作っちゃうようなミワくんが体調崩しちゃうんだぜ!
こりゃヨッポド!!
で、
今、西田辺ではどうしようかなっていっぱい話し合ってます。
つかまるくんの「RT」っていう作品も、その結果のものだし。
ボク達はどう頑張っても当事者にはなれない感を全開出さなきゃ、
もうダメなんだろうなと思ってます。
それはある種の覚悟が必要だし、
出来れば、
余裕に余力が残っている内に、
底が尽きる前に、
余裕が無くても楽しめるコンテンツの構築が出来れば、
今月中にまとめたいなって思ってます。
重要なのは、
東北に寄付する事が大事なんじゃなくって、
生き残った人達がどうするのかって事だと思うんだよね。
むしろさ、
東北ばかりに寄付じゃなくって、
ボク達にも寄付して欲しいくらいだよ!
当事者じゃないのに疲れているし、
前ほど面白いものを楽しめていない現状がある。
どうか自粛なんて言わずに元気な人は最強に楽しんだ方がいい。
なので、
西田辺から発信する事は、
地震の事じゃなく、パワフルにいつも通りはっちゃけた事をやれたらなと考えています。
何も変わらない。
ただ、見る人がどう思うかだと思う。
出来れば見て欲しいなって思うんだけど、
どうなんだろう。そんなに余裕ない?
地震ばっかでしんどくない?
少し肩の力抜こうぜ。
2011/03/22
http://www.fengfeeldesign.org/
最初に口火を斬ったのが、つかまるくんのツイートだった。
なんか大勢から批判を受けていたみたいだけど、
実際リツイートしたらフォロー数が減るくらいの内容ではあったけど、
決して間違った事を書いている訳ではなかったと思う。
むしろ、
つかまるくんのツイートにキチンと反応出来ていない人が居る、
という事が異常なのであって、
普段から考えれば普通の意見だったような気がする。
とくに変な事も書いてなかったし、
ただ「不謹慎」という独特な言葉で批判の的になっていたのだと感じる。
あの時のツイッターの状況って、
おじいちゃんの話してくれた戦時中の状況に凄く似ていると思う。
何か分からないけれど、
凄い事が起こって流れてきた情報をとりあえず大きな声で叫ぶみたいな。
そしてそれらが共感する1つの方向に流れていくっていう。
1つ確実だったのは、
「デマ」という言語に敏感だった事。
情報というのは信用におけるソースがあってこそ、
冷静に分析し対応する事が出来る。
それはツイッターでは自分の判断に委ねられるメディアだからこそ、
成り立っていたのに、
今もそれを引きずるかのように変な共同体的な意識が維持されているように感じる。
まあ、別にこんな分析じみた事を書こうと思った訳ではないので、
ここらへんで置いておくけど、
興味があれば、
今、
つかまるくんのツイートを読み返した方がいいと思うよ。
当時、「不謹慎」という言葉に踊らされた方たち。
そんなこんなで、
活動が止まっているのが現状です。
活動が止まっているというよりかは、
ネット全体が全ての興味を無くしたかのように、
静まり返っている印象。
これはネットに限らずリアルタイムでも起こっているのではないかな。
そして皆が疲れ始めている。
最初、譲り合っていた事が出来なくなる。
実際、阪神大震災で起こってたみたいだし、
友人は意味もなく些細なことで殴られたって言ってたし、
それが、ちょうど一週間たった時くらいの話。
マジで、余裕が無くなった時が恐い。
それはボクたちもそうで、
ミワくんが寝込んでしまっている。
制作が手に付かないみたいだし、
最初は無理してやっていたけど、
やっぱガクっと来たんだろうな。
なんかこう。
遊べなくなっている。
それは実際の制作にも出てきてしまってる。
どうしたもんか。
地震前と地震後、
状況がガラっと変わってしまった。
どう考えたって地震前に戻れる訳がない。
その上、地震後の手立てが見つからない。
寝込みながら、
友人に看病してもらいながら、
スペイン人の相手をしつつ、
あ、でも今回はホント助かった。
ホント大勢に助けられた。
東北ではたくさんの人が救助されていたけれど、
その時にボクも大勢に助けられていたのであった。
2011/03/22
http://www.fengfeeldesign.org/
何かが変わってしまった気がする。
地震の時、ボクは木曜日あたりから出ていた熱が悪化して寝込んでいた。
だから、起きた事も知らなかったし津波をリアルタイムでTVで見る事もなかった。
もちろん寝ていたからツイッターもしていないし、
そういう意味ではある意味幸福だったのかもしれない。
なんというか、
血相抱えて帰ってきたミワくんによって、
凄く大変な事になっていると教えられて、
大変だ!と思ったくらいなのだから。
それまで津波の事実さえも知らなかった。
その翌日、スペイン人が来る。
友人が旅先で知り合った人なのだそうだが、
東京に帰られずに泊めて欲しいという事なのであった。
普段なら絶対に断っていたのだけど、
「地震」という出来事と体調が悪いというダブルパンチで、
どうやら判断力が落ちていたみたい。
おかげで失恋を味わう事になるのだけど、
人の心を弄びやがって!!というのは別の話なので置いといて(お酒奢ってくれたら話すよ)。
後で思えば、
その日はミワくんの家で晩ご飯をご馳走してもらっていて、
もう少しゆっくりしていけば、
多分、断れていただろうし電話にも気付いていなかったように思う。
次の日に連絡しておけば、
こんな屈辱的な失恋を味わう事も無かったのだけど、
なんかいろいろ失敗だなあと感じつつ、
その時は知る由も無かったのだけど、
いろいろな事が一気に西田辺には押し寄せていたのだ。
かくして、
その日はミワくんちの地デジ対応テレビ点灯式の日で、
残念ながら映るテレビが地震速報ばかりという悲しい感じになっていたのだけど、
既に頭の中は、
今後の日本なんかよりも、
今進めているプロジェクトをどうしたらいいのかという事で、
頭がいっぱいになっていた。
確実に状況が変わるし、
同じスタンスで挑んでしまうと失敗を目の当たりにしそうだなという心配で、
思考がグルグル廻っていたのを覚えています。
少なくともボク達の活動は、
平常的な中でこそ輝くものであって、
異常事態の中で輝ける代物ではないのですね。
でもまあ、
その日から、
スペイン人、体調不良、失恋の津波に襲われて地震どころではなかったのだけどw
おかげで、
もしかしたら、現状として、
人より疲弊していないし余裕の無い状態じゃないかもしれないと思った。
まだまだ前の恋は引きずってるものの、
こんなの酔っ払って大泣きしとけば治るので、
急に大変な状況を見たボクとしては、
今のメディア、ネットの状態が、
異常な事にも気付く事は簡単でした。
こ、こいつら平常心を失ってやがる!!みたいな。
冷静を装ってるのが目に見えてて、
うわー恐いなあというのが最初の印象でした。
2010/12/20
http://www.fengfeeldesign.org/
アウトライン化についてです。平仮名書体「みずくさ」にとってアウトライン化とはいかなるものだったか。アウトラインという外郭部分前提の在り方に何を内包すれば、平仮名たる存在になりうるのか。この開発にとって一番のポイントは、その工程だったように思います。書くという動作そのものの平仮名を書体という刻印的なものに変換するには、どのような要素と配合を行なえば、アウトラインという単純作業の中に、平仮名という線という骨を組み込む事出来、肉という筆を施す事が出来るのか。それがしかも、女性的な甘美を手に入れるには、何をエッセンスとして取り込めばいいのか。この判断というのは、完成に大きな影響を与えると考えるに至りました。まず、平仮名を構成する骨が直線であるという一面です。これについては非常に判断が難しいのですが、とくに、書を手がけられている方の平仮名を書く動作を観察すると、その筆の動きが曲線ではなく、何故そのように曲線に見えるかの理由は、どうやら力強く書かない事にあるようでした。漢字を崩したというよりも、その書き心地を求めた結果、崩れる事になったのだと感じました。なんというか直線を流す、その結果丸みを帯びたという感じです。直線を止めると丸くならないそうです。常に動いた状態で、文字を書くというよりも、なんだか、音の波長を読みとっているという感覚に近いと感じました。でも。これはあくまで書くという動作です。書くのではなく、それを書体とするにはどうすればいいのかというのが、今回の開発のテーマでもありましたし、現代の人にも認識出来る文字である事は大前提です。書く平仮名の最高のエッセンスをいかに書体というルールに反映させるかにあるように考えました。単なるサンプリングでは終わりたくないというのが、本音のところだと思います。何故ならサンプリングで終わらした書体は今までにもたくさん見てきましたし、それが平仮名書体という形を成しているものを含めて、偏り方が、正直なところ、カッコ悪いものだったんですね。どうすればカッコイイものになるか、というか、カッコイイ平仮名とは何か、それがアウトライン化された時に実現出来るものとは!実際のところ、アウトラインという単純な作業には表現の限界がありますし、なんかこう、軸みたいなのが抜けた、フニャフニャなものになるのは、イラレを触ってきた方にはスゴークわかる事だと思います。イラレのベジェ曲線の便利な麻薬的な部分であり欠点でもあるんですね。そもそも真円で構成されるベジェ曲線は、所詮はランダムで形成される人間の手から生まれる美しい曲線に可能べくもなく、それは、どんなに研磨をしても得られないものなのです。ホントにこれはイラレを使ってきた人にはわかるかと思います。いわゆるイラレ臭さ、歪みの無い線やからこそ得られる圧倒的な正しさ。最初の頃はそれが持て囃された訳ですが、なんかやっぱり味気というかなんというか、アナログ的なノイズの現実をリアルな部分として設計する側が肌で感じて体得しておかないと、なーんか、嘘が出来てしまうんですね。書体においてアウトライン化する際には技術者の方が一番気を使われている部分であると察します。つまり、このリアリティをどこにするか何にするかが、今回のポイントになった訳です。それが最初に書いた、線で在り、肉である訳です。しかもそれを言葉では説明の出来ない自分の感覚としてどこまで体得出来るかが、多分今回、作業に費やした大半だと思います。デッサンや意見を聞くという作業に比率で言うところの全体の8割はかけました。そしてエッセンスの分割です。体得したリアリティと抽出したエッセンス (まるで料理…)をいかに、書体や技術というものに振り分けるかです。で、線と肉に分かれた訳です。まず、線だけで設計し、アウトラインで肉を付けました。もっと言えば、現在の設計を元にして、肉を変化させた別の書体が出来上がるといった具合です。設計をもっと研磨すれば、その後の「みずくさ」にも変化が現れます。肉そのものの考え方が変われば、それもまた「みずくさ」に落とし込まれていく訳です。線と肉。直線と曲線の結合。つづく。
平仮名書体「みずくさ」をリリースいたしました。
2000円で販売中です。どうぞよろしくお願いします。
詳しくは下記アドレスまで!
http://blog.fengfeeldesign.org/?eid=1152415
2010/12/12
平仮名の美しさは、文字1つ1つというのは、それほど追求するものではない。何故なら、その1文字では何も伝わらないから。もちろん1文字でも言葉になる文字はあるけれど、その意味の用い方として、それを伝える行為というのは、個人同士の手紙のやり取りだったり、個人の日記のように狭い範囲で通じる方法であり、それがメインの軸として成り立つ事はほとんどない。成り立つという意味では、漢字の方が強いし、1文字毎の落とし込みは英字の方に分がある。平仮名は決められない文字なのだ。文字でありながら、文字と言う形骸を持ち合わせない、なんとも不思議な文字である。文字であるという意識は、人の頭の中にあるのに、それを物質化した途端に圧倒的に意味を成さない。文字という能力でいうと、他の国の言葉とは少し違う軸にあるようなのですね。それが何かと言われると言葉に詰まるのですが。現在の平仮名は、そういう形骸出来ない要素をふんだんに無くした上で成り立っている。形にしないと、それが判読出来る術としては弱いものでもあるし、「書籍」というものを構築する上で、なんとも不便の部分が大きいというのが、今日の書体の形になっている理由だと思う。たとえば、例の画像のように、食べ物が少しおいしくなったら、それはそれで平仮名なんじゃないかなという答えを、今回の「みずくさ」では「形」にしたかったんですね。それが書体として運用出来たら絶対に面白いと感じたんです。「まめ」が「豆」という意味を持つ文字で表現ではなく、響きや形の音として伝わって欲しかったんです。それこそがボク達日本人が持ちえている不思議な能力だし、もう一度それを思い出して欲しかった。まさしくこれこそがボク達が出来るグラフィックデザインの素みたいなもののようにも感じました。言葉の意味を紙面に置くのではなく、それを見た人の心に内在しているイメージを呼び起こす文字。それが平仮名なんです。だからこそ、平安時代にラブレターや日記に広く用いられたのだと思います。だから、平仮名のデザインというのは、記憶なんです。だから1つ1つの文字をデザインする時に「あ」が「あ」過ぎないよう気を使いました。「あ」はどこまでが「あ」で、どこからが「あ」なのか。「あ」と認識出来る限界はどこか。文字として認識出来るギリギリを追求したのが今回の「みずくさ」であるともいえます。「みたらしだんご」が凄くおいしそうに見えるのは(ボクは凄く見えます!)、その文字がおいしそうなのではなく、「みたらしだんご」のおいしい記憶が単に、平仮名に呼応しただけなのですね。当時の和歌(ラブレター)でもそうです。伝えるのではなく連想させるものが多いのは、その特性をよく理解した手法だと言えます。「うどん」が「うどん」として意味を成しているのは、音の連想なんです。そこにある文字そのものが意味を成している訳ではない。それが平仮名です。残念なのは、当時ほどに連想が容易ではなくなった点です。確実に漢字を利用した言葉が増えたのです。そのせいで、平仮名は文字としては音として補助する役目に成り下がってしまいました。でも、こんなにも不思議で面白い平仮名の魅力を「みずくさ」で味わっていただけたら嬉しいです。そして、平仮名が日本のタイポグラフィ、というよりも、絵(音)のようにグラフィックデザインの表現方法の1つとして用いられたら絶対に面白いんだけどな。お、太い声だな、かわいい感じだな。みたいなw ちなみに、今回の「みずくさ」について言えば、40歳くらいの落ち着いた女の人イメージですw つづく
平仮名書体「みずくさ」をリリースいたしました。
2000円で販売中です。どうぞよろしくお願いします。
詳しくは下記アドレスまで!
http://blog.fengfeeldesign.org/?eid=1152415