1万8000人の登録クリエイターからお気に入りの作家を検索することができます。
2010/02/17
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/
線路は続くよどこまでも。
動的パターンの基本的な繋ぎ方です。
どこまでも繋がっていきます。
動的パターンの主体は楕円にあらず、
「根」が全てのバランスを左右するので、
その点にだけ気をつけて、
「根」が図案を隔てて一本の線になるように配置すれば、
綺麗にすっきりこのように情報を囲む事が出来ます。
今回はノーマルのサイズで仕込みましたが、
サイズを小さくすれば。
調節しながら情報の周りをくるりと囲む事も出来ます。
また、急に「根」の向きを変える事で、
2つの流れを同じ連結でもたらす事が出来ます。
また外側と内側の要素もあり、
図案毎を見たときに、
楕円部分と「根」とを合わした円になっている内側と中として、
外側を外としています。
これは、
円で囲んだ場合に、
内側となった中が飽和され緩いイメージを持つとともに、
外側が張り詰めたように圧迫されるような緊張的なイメージも持つ事ができるので、
1つの紙面の同じ白であっても、
互い違う空間と認識される事を狙った設計になっています。
また、この効果は囲む事や紙面からの離脱(遮断)をおこなう事で強さが増しますが、
一部の要素として使うことで、
様々な効果を期待する事が出来ます。
これは応用編なのでこれから書いていきます。
線路は続くよどこまでも。
基本的な動的パターンの連結でした。
まだまだ続く。
2010/02/16
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/
「動的グループ」 の解説です。
とりあえず、適当にピックアップしました。
形的に今回の画像にある感じのやつが「動的グループ」 です。
とくに組んだり情報に配慮せず、
どこどこと配置しましたが、
明らかに紙面が動いている事がわかります。
このグループの特徴は、
とにかくイメージの「動」にあります。
結構大胆にがつがつ置いたのですが、
動いているので、
文字が沈む事なく、
むしろ一番の存在感(図案そのものの効果もありますが)を持っています。
図案グループの中で一番力強い形状をしていますが、
その逆に紙面を埋めるイメージの強さでいうと一番弱いものとなっています。
また、
これから細かく解説していきますが、
イメージの部分として、
このグループは、
動的な自然現象にリスペクトして組む事を推奨します。
波紋や風、水の流れ、水滴、雷、火、植物の成長の連続…等々、
出来れば具体的な形ではなく、
いわゆる日本的情緒の形を意識して、
要素として組むと図案の特徴を生かす事が出来ます。
ですから、
全体的な配置に関しては日本の庭を参考にしたのはそこにあります。
ただし組む人間がそれを意識しなければ不可能であり、
「水草」を使ったとは言えない訳です。
あ、自由ですよ、自由が前提です。
「水草」を扱う上では恐らく一番使うであろう形です。
ただし、
動的グループの多様は、
紙面に動きを付けて活発な息吹を感じさせる事が可能なのと同時に、
1つだけ注意点がありまして、
注意点というより役割でもあるのですが、
その長さが仇になり紙面上の配置で情報を分断する能力もあるという点です。
また動きを付けると同時に、
版同士の動きを対照的にして組み合わせる事で、
動きをぶつけ合い、
そのバランスで、
せっかく動いていた紙面が一気に止まる危険があるというものです。
逆に、
それを利用する事で活きてくる事も可能なりますので、
これの活用法については後々書いていきますが、
使い慣れてきたら是非その方法も活用してみてください。
なによりも動的グループを多様する場合には、
互いにある近くの図案の向きを意識し、
配する事が大切です。
また、
他のグループと関連を持たせる為の基点にもなりますので、
まあ、そこらへんはおいおいと。
お腹が空きすぎたので今日はこのへんで。
「動的グループ」の解説でした。
当分「動的グループ」が続きます。
2010/02/15
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/
うん、いいよ凄くいい。
今回の画像は、
新・花形装飾活字「水草」の基本的な作法として提示します。
今までの花形装飾活字で根本的に違う事がわかるかと思いますが、
まず、
囲まない事が基本です。
配置するという観点で見ると、
よりグラフィックデザインの方法論に沿った近い形になっています。
もちろん囲っても使えますが、
これについては後々解説していきます。
図案は大きく分けて4つのグループに分かれています。
今回上部配している「動的グループ」
下にポツンと配されている「止めグループ」
他に「連結グループ」「異質グループ」に続きます。
これも1ずつ今後説明していきます。
各図案には方向を示す「根」が備えられてます。
これはお互いの図案を関連付ける安全弁のようなものでもあり、
方向を示す指示器のような役割があります。
そして今回の要でもある紙面上での情報の緩急をつけるクッションのような存在でもあります。
今回の図案は「楕円」を基本として構成しておりますので、
どうしても紙面を埋める白と黒とのバランスが、
文字や写真、絵にと対した時に崩れてしまうので、
それを防ぐ役割も与えています。
この「根」のおかげで、
間を空けたときや、
数を少なく配置した場合でも、
容易に互いの関連性を生み出し、
情報を遮断する密度を調整する事に成功しています。
長い「根」や共通している「根」を図案同士で重ねる事で、
2つの図案を1つにも出来、
その可能性を無限大に広げてくれます。
また重ねる作法を使う事で、
書道でいうところの止め、跳ねを自在に操る事も出来ます。
今回の画像のように、
遮断の密度を調整する事で、
右の題目と左の文章とを情報として「切り離さず」に、
関連性を与えながらも「分ける」事が出来ています。
それは情報が増えれば増えるほど有効な手立てであり、
整理とは違う新しいタイポグラフィを可能にもしています。
隔てる密度を調節し整理した上で、
紙面を装飾で埋めるのではない、
まったく逆に在り方を体感出来るかと思います。
あ、
ここで注意なのは、
今回の「水草」では、
上記を読んで勘のいい人は察してるかと思いますが、
この花形装飾活字で情報を飾ることはもちろん、
情報そのものと関連性を持つ事は出来ません。
まあ、やってもいいんですけど、
それはエンスヘデ的な在り方の方が正解なんですよね。
出来ない事はないですが、
おすすめはしません。
重要な事は、
茶室へと導く道筋を作るだけですから。
という事で基本的な作法はまだまだつづきます。
2010/02/14
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/
今回、金銭と文章の条件とさせていただきました。
まず文章によるテーマの詳細と狙いを書かせてください。
文章のテーマは、
「私のグラフィックデザイン」です。
意図については少し書かせてもらいましたが、
ここではもう少し突っ込んで書きたいと思います。
単に「グラフィックデザイン」にせず、
「私の」を付けたのには理由があります。
グラフィックデザインの定義については語りつくされてきましたし、
グラフィックデザインとは一体なにかというものを、
わざわざ今になって問う事になんの意味もないと感じたからです。
現在、
ありとあらゆる局面においてグラフィックデザインは使用されています。
重要な事はその局面によって捉え方が異なるという事です。
一概に1つのグラフィックデザインの定義では語れない状況になっている上に、
それらが互いに否定出来ない程度に、
「意味」というものを持ち始めているという現状を目の当たりにした時に、
これはグラフィックデザイン、
あれはグラフィックデザインじゃないと言えない、
なんとも切羽詰った状況になっている事を、
最近になって凄く感じるようになりました。
定義そのものがシーンによって違うのに、
例えば印刷に限定してみれば、
結局同じアウトプットになっているという事は、
グラフィックデザインというものが別の形で一人歩きを始めたのだと、
考えざるえない事になってるような気がします
ボクは、
グラフィックデザインそのものが一体何か知る為に、
今まで活動してきました。
でもやっぱり純粋的な部分として、
思いの他、
今の状況が切羽詰っている(何回も書いてすいません…)んです。
それは凄く感じます。
グラフィックデザインは何かではもう遅いような気もしているのです。
「水草」を餌に文章を集めようとしていますが、
本当のところ、
これが幾つも集まる事は凄い価値だと思います。
活躍とか有名どころじゃなくって、
土方の部分としてグラフィックデザインは、
どのように受け入れられているのか、
そろそろ共通認識としてあってもいいような気がしているんです。
それは分野や職業によって様々だと思います。
是非、教えてください。
もう一度書きます。
狙いとしては、
とくにあなたの考えるグラフィックデザインという1つの価値ををテーマとして掲げている訳ではありません。
あなたが直面しているグラフィックデザインの事を知りたいと思い、
このテーマにさせていただきました。
ただただグラフィックデザインとはこういうものなんだよ、
こういう風にしなくちゃいけないんだよ、
なんて聞きたくもないです。
そんなの目に穴が開くほど書籍で読んだし、
実際に今はそうじゃないもんね(知る価値があるけれど)。
その中で矛盾が生まれているとか奇跡が起こっているとか、
絶対あると思うんだよね。
それも是非教えてください。
ただ、別に限定的でもないという事も悪しからずな感じでお願いします。
もちろん、あなたが考えるセンセーショナルな、
こんなんどや!みたいな熱いグラフィック論もお待ちしてます。
質問ありましたらお気軽に。
7000文字なんて簡単ですよ。
最初10000文字にしようかと思ったのだけど、
優しさで7000文字です。
だって3,4日ありゃ、
1つの衝動だけでこの「花形装飾活字を愛でる」でさえ10000文字超えてるんで、
簡単簡単(笑、お待ちしてます。
金額については、
最初から10000円と決めていました。
どんなものが出来ようとも作る前から決めていました。
文章を書くんがめんどくさい儲かってる人は是非お願いします。
この貧乏な探求者の、
次の研究費としての協賛金としてお願いします。
2010/02/13
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/
結局何を作ったのか。
ここからは庭とか日本的にとかは無しで書きます。
背景としては前回までの内容は正しいのだけど、
実際問題、出来上がったものが、
現在の視点やカルチャーに沿わないというのでは、
意味が無いので、
じゃあ、なんなのよと言う意味も含めて書いていきます。
今回の制作は、
いかに囲まなくても繋がなくても、
1つの紙面の空間を隔てられるかという点と、
隔てたときにいかに差異というか異質空間のようなものを作り上げる事が出来るか、
という点を要に考えて制作しました。
もちろん繋いでも囲んでも大丈夫なのですが、
その時に両方で使えて、
両方の場合にその効果とイメージが変えられるという事にも気を配りました。
それとシンメトリーではなくアシンメトリーに配置した際に、
バランスが崩れない形である事、
その場合に遠くにおいてもその関連性を保てるという事、
逆にシンメトリーに配した時に、
幾何学としての一定のルールを得られる事もクリアの条件としました。
絵や、写真との相性についても、
出来るだけイメージの階層を低く設定しましたので、
邪魔になる事は一切なく、
その上で額としての異質空間への誘導という機能は保持しました。
同時に文字を配したとしても、
額としての機能を維持しつつ被る事なく、
配置によっても対象となる絵や写真との関連性の有無を設定出来るようになっています。
またバランスを工夫すれば、
どちらを主役の情報として扱うかもコントロールが出来ます。
そして、
紙への印刷(とくに活版で)を想定しパスのアウトライン化を行っています。
もちろんモニター上での完結でも使う事が出来ますが、
印刷をした時により魅力が発揮出来るように設計とアウトライン化をしています
この点においても西洋的な印刷技術の根本を崩し、
日本における書道の際に墨汁が紙に滲む独特な広がりも再現しています。
最初、版画の際の膠独特な滲みの広がりを再現しようとしましたが、
デザインした図案を木版画作って刷って、
それをトレースといった膨大な作業量が待っている事に気付き断念しました。
けど、図案の数を減らして今度挑戦したいでっす。きっといいと思う。
それはさておき、
デジタルデータですから、
拡大縮小、回転、対称、くっつけたり切ったり、加工編集思いのままです。
その気になりれば上手いこと重ねたら違和感なく1つの図案として使えるようにもなっているので、図案そのものは310種類程度ですが、
その数は無限に増やす事も可能です。
もちろん活字というルールに則って配置しても面白いと思います。
ただ、やはり気を付けなくてはいけないのは、
グラフィックデザインにおいての、
イメージの階層(印刷は抜きにして)についてです。
現在、
絵、写真、文字、
この3つの領域のみが存在し、
いずれかのサジ加減によって、
制作が行われています。
もちろんこれは花形装飾活字が入ろうとも変わる事はなく、
単なる「絵」としての情報のみがクローズアップされるのみです。
重要な事は、
どんなに意味を含ませようとも文章で書こうとも、
グラフィックデザイン上の全ての事象は視覚的な憶測にすぎないのです。
搾取者にとって、
これら制作者の意図や配慮は問題等ではなく、
単に、
目の前にある情報に対してのみ価値があるという訳です。
例えば、
本のグラフィックデザインには情報と等価の視覚的憶測等は存在せず、
本そのものの情報性(作家や作品)のみに集約される存在であり、
それを彩るなんらかのカルチャー的装飾については、
残念ながらグラフィックデザインの域を出ないという結論に達する訳です。
つまり、
美術ではないしアートでもないというものです。
そこで、
新・花形装飾活字「水草」は何を目指したのでしょうか。
何度も書きますが、
単なる装飾なら活字という名前も、
ましてや花形なんて名前さえも必要がない訳です。
あくまでこれは活字による情報群を整理する為のツールであり、
とくに日本語書体をよりかっこよく魅せ、
英字を含むタイポグラフィの在り方に新しい風(アールヌーボのような)を、
吹き込むものであると言い切ってしまいます。
絵や、写真ありきのグラフィックデザインではなく、
文字そのものの美しさを際立たせ一助になるのではと期待もしています。
それと同時に、
この新しい方法論を学ぶ事により、
幾何学のような視覚的魔術からの脱出と、
「デザインとは何か。」といういい加減、
戦後の東京オリンピック以降の高度経済成長期のようなデザイン幻想から、
ぼちぼち目覚めちゃった方がいいんではないかという思いも込められています。
が、
やはりツールです。
使いにくければ意味がありません。
その点に関してはこれから書いていきますが、
これだけは断言しときます。
初心者からヘビーユーザーまで幅広く使えるものに仕上がっています。
使えば使う程に味が出てきます。
ただ、
ずっと西洋のタイポグラフィやグラフィックデザインに慣れ親しんだ人は使いにくいかもしれません。
とくに広告デザインしてる人は躊躇かも。
日頃に友禅や日本画、着物や日本文化に慣れ親しんで、
積極的に関わってる人はすんなり使えると思います。
今回の制作ので最初の理由が、
現在のグラフィックデザインへの疑問の払拭と可能性の模索だったので、
そういう点においては「水草」は成功だと褒めてあげてください。
ただ、やはり使って貰わないと意味がないのでしょう。
今のとこ思いつくだけの書きたい事書いたし、
ボチボチ概要編についてはお開き(思い出したら書くけど)したいのですが、
何故、この金額と文章の文字数なのかは、
次回へ続く。
2010/02/12
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/
理想は一定のルールの元でランダム性を作り出す事です。
不確定要素をいかに作り出すか。
西洋の花形装飾活字とは逆の発想です。
ルールを作れば作るほどランダム値は大きくなり、
ランダムに配すれば配するほど、
それがルールになるような在り方を今回は採用しました。
日本の美意識というものは、
目に見えない感覚のようなものが多い。
味覚にしても嗅覚にしても、
余韻のようなものを全面に押し出しているように思いますし、
作り出すというよりかは、
選び取っているという意識が強いようです。
西洋の場合は、
人が作りしものと自然が作りしものを別に見ているけれど、
日本の場合は、
自然は自然として、
人は人として、
別に見ているのだけど、
キーワードとしては、
利用や再現、もしくは融合、調和といった具合で、
人が自然に対する感じた事を構築し選び取っているように思います。
石も加工するのではなくって、
どこからか拾ってきてそのまま置くような動作、
その置き方を、
石を操作するのではなくって、
石本来が持つ自然性と人の存在を掛け算のような重視で配置する、
その偶然性が「作り出す」事象を美意識にしているのだと考えています。
それは西洋が組み立てて整理する文化にあるのとは逆で、
組み立てない事で、
自然発生したルールを掬い取った作法を利用し、
それらを組み合わせる事で、
あのような庭が完成しているのではないでしょうか。
という事は、
日本における建物と庭の石が織り成す関係というのは、
単なる飾りや視覚的な部分での話しではなく、
建物と自然の区別を人が常に感じる事の出来る、
自然的なランダムを作り出すルールのようなものであり、
これこそが今回の目指すべく理想である訳です。
これを、
新・花形装飾活字『水草』に照らしあわした場合に、
装飾a(美意識としての)、装飾b(整理性としての)、活字、人の4つにまず分ける事が出来ます。
まず今回は約310個の図案を用意しました。
前回までに図案1つずつで言うと勘違いしてはいけない部分として書きましたが、
これはとくに石をモチーフにした訳ではなく、
また『水草』をモチーフにした訳ではありません。
芽生え、苔むすのような日本人特有の美意識をグラフィックデザインとして定着させたものです。
その上で、
これらを川辺に転がっている石ころに見立て、
製品版では整理する事なく円形に配しています。
これは上記の、
要素をルールとして組み上げていくのではなく、
気に入った形を拾い上げていき、
それらを活字と人(搾取するという意味の人)との関係と、
実際の美意識との掛け合わせで配置していけるようするというものを、
再現したものです。
狙いとしては使っていく内にレゴのように、
自分の気に入った形、または作法のようなものが生まれてくるでしょうから、
それを独自に整理しファイル化してもらう事なのですが、これは後々書いていきます。
つまり、
今まで視覚的に日本の庭としてきたものを感覚化(もしくは意図)し、
感覚としての美意識で感じていたものを視覚化したものが、
今回の花形装飾活字『水草』という具合なのです。
その結果、
活字との関係において、
今までとは根本的に違うタイポグラフィが生まれる事になりました。
少し大げさかもしれませんが、
活字そのものを装飾化する事によって、
より今までのタイポグラフィよりも活字そのものの力が増しているように思います。
そして、
日本の庭との関係において、
もっとも気を配ったのは、
装飾と活字の関係を限定的にならないようにした事です。
それは、装飾が必ずしも石(要素としての)である必要がなく、
活字も人(存在としての)である必要がないというものだからです。
これは、あくまで関連性の問題であり、
言葉でくくれるものではありません。
ただ、日本語書体において重要な事が飾る事ではなく、
緩和剤的な存在としての装飾性と、
組まれたときの、
庭と石との関係が「丁度良い」という事を、
人(この場合は活字ですね)が入った時にどうなるのか、
という観点において、
これはグラフィックデザインとしての技法能力が問われますので、
使う人に委ねるしかないと考えております。
また、
「作法」についても、
日本の庭というくくりで言うと、
まったくの違う分野ですし、
汲み取る事は可能ではありますが、
今回、作り上げた図案は、
それを限定するような作りをしていません。
つまり作り上げていくのではなく、
作り合わせていく方法なので、
「作法」そのものも使う人によって、
シーンや媒体によって変わるという事です。
とくに具体的な物質をモチーフにしていませんから、
まず情報がいかなるモノかという事が、
前提になっています。
う、またもや伝わったかな…。
今までの装飾的な在り方とは違う上に、
それがタイポグラフィに与える影響というのは、
実際に使ってみて凄く大きく、
明らかに現存している方法でのやり方とは異なるドキドキ感があるというか、
単なる和風ではなくって、
日本がもしタイポグラフィやグラフィックデザインを最初に開発していたら、
みたいな感じになっています(おおげさか)。
これについては説明書的な感じで、
いまのこの基本説明が終わったら実践とともに書いていけたらと思いますが、
このやり方って、
別に『水草』じゃなくてもいける(アカンがな…)という事に気付いたんです。
でも今のとこ『水草』が一番いい答えのような気がしますし。
他でボクの知ってる範囲では見た事がないのでどうなのでしょう。
とりあえず、
水草の図案や組むという発想の基点についての概要は、
今回で大体書けたので、
次からは結局何を作り上げたのかという事も含めて、
概要編、後半戦に突入です。
質問やわからない事がありましたら、
メール(printers_flowers@fengfeeldesign.org)か、
ツイッター(http://twitter.com/fengfeeldesign)までお寄せください。
次回へ続く。
2010/02/11
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/
集合体としてのイメージについてです。
つまり個々の造形ではなくって、
活字として組んだ時のイメージ構築の拠所についてです。
復習として、
過去の西洋のものは、
「飾る」という要素と「組む」という要素の2つを両立する為に、
直線と曲線の部位をある一定の計算の元(例えば片方ずつ)で、
罫線として役割と装飾としての役割を1つの図案に設けるというものでした。
その結果、
個々の図案に役割を与えつつ、
上記のルールを守る事で、
組んだ時の統一性と整理性、
そしてなによりもの美しさのイメージを構築する事が出来ました。
それは英字との関連性を重視し、
情報の端末として、
なおかつ活版という技術においては、
最高の装飾術までに高めました。
もちろんそれは、
英文字においての長所であり欠点でもある、
文字そのものの無装飾性と、
それが故の情報の階層化と区別化の下手さをフォローしたものでした。
では、今回の「水草」では何をすればいいのでしょうか。
日本語書体は、
それそのものが装飾の為、
西洋のような装飾まで高めると、
画一的な紙面になる事は今までも書いてきましたし、
どのように落としこんでも、
組み合わせる事で複雑さを生み、
結局同じ事になるのです。
それよりも大きな問題点があります。
それは縦組みが出来るという事です。
縦組みと横組みを合わせただけで、
既に情報の区別化は文字の大きさが同じでも可能であり、
大きさだけを変化させたとしても、
その階層化は可能となるのです。
縦組みと横組みそのものに合わせる事の出来る、
また、英字にも対応した花形装飾活字、
それは一体いかなるものなのか、
思考は続きます。
ヒントはやはり庭にありました。
散々書いてきましたが、
西洋の庭は囲い、形を定着させる事が基本となります。
これは今までの花形装飾活字にも同じ事が言えます。
ところが日本の庭は囲ってはいないのです。
「飾る」ものではなくクッションのようなもの、
場を支配する空気を柔らかにするもの、
彩るのような主張ではなく、
主役を引き立てる緩和剤のような存在だったのです。
そしてこの場合の主役とは、
ずばり活字の事を言うのではないでしょうか。
実はもう一つ重要な違いがありました。
「イメージの方向」です。
前にイメージの所在と書きましたが、
それとは別に、
圧倒的に日本の庭は「内から外(つまり外から内にイメージの流れがある)」を見るものになっているのです。
逆に外から見ても何も面白くないものなのだと思います。
これは西洋の庭が、
建物を彩る、または庭そのものを楽しむ美意識が「外から内(つまり内から外にイメージの流れがある)」にある事が、
花形装飾活字に多大な影響を与えているのですが
まさしく、
文字を飾るのではなく、整理する訳でもない、
脇役としての存在が、
日本語書体に合う花形装飾活字になるのではと考えたわけです。
いよいよ本題に入りそうな予感。
つづく。
2010/02/10
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/
何故、この形に至ったのでしょうか。
その事について触れていきたいと思います。
最初の方のデッサンは、
ごくごく有り触れた形を作り続けました。
まずイメージを落とし込む作業から開始し、
雲や星、花火や植物、風景、月、建物、家紋…etcetcetcetcetc........
日本語そのものの装飾性とダブらないイメージの在り方を探りました。
難しいのはオブジェクトの構築時にどうしても装飾性が発生するという事です。
どのような形にしろ「飾る」意識では日本語と重なってしまう上に、
上手く形にしたとしても整理性の部分として劣ってしまい、
単なる挿絵のようなものになりました。
そうやって、ありとあらゆる形を描き続けていると、
気になる形も出現し始めます。
それは「楕円」でした。
それも完璧な「楕円」ではなく不完全なものが良い事にも気付き始めます。
たしか、ちょうどこの時くらいが茶室の現象にも気付き始めた頃だったように思います。
ただそのままだと個々が独立し意図が汲まれたとしても、
花形装飾活字として生きるかどうかという点においては、
質が低くなると判断しました。
それに加え、
当初は鉛筆でのデッサンをおこなっていましたが、
この頃から筆と絵の具(黒に近い青、ほとんど黒)でおこなうようになっていました。
何を直線とし何を曲線とするか。
そこには鉛筆では意識できないものがありました。
筆だと線が太いのです。
形を描く場合に鉛筆だと往復しなければならない。
が、筆だといわゆる一筆で可能になる場合が多い。
それは書の動作に近づいていく事になります。
形を作る上での意識の変化は、
根本的な考え方を変える事になります。
その変化はすぐに現れました。
それまでは1つのモチーフの元に描く作業でしたが、
1つの出来上がった一筆に対してどのような事が起こるのかという事に集中し始めました。
筆で楕円を書き続け、
心地いい気になるものに関連性や形を加えていく。
木を植えたり、
草を生やしたり、
石を付けたり、
雲にしてみたり、
風景として組めるようにしてみたり、
いろいろ試した結果、
辿りついたのがこの形「水草」です。
石を表現した訳でもなく、
水草を表現した訳でもなく、
全てを統合した美意識としてのオブジェクトとしました。
あれだけの画像と文章でこれを見抜いた方がおられて、
マジでスゴイと思いました。
ずばりその通りです。
「芽生え」「苔むす」(言葉借ります)といった日本独自の感覚の要素を、
具現化しグラフィック化したのがこれです。
囲う方法論とは逆にというのも後々書いていきます。
それが組まれて、
実際に紙に印刷されるという事は、
今まで日本画や友禅のような伝統様式をグラフィックデザイン化したのとは別に、
新しいグラフィックデザインのローカライズとしての提案を、
つまりグラフィックデザイン出来たのだと考えています。
これはもう自惚れですが自画自賛させてください。
それをもう一度、
印刷という技術の元に花形装飾活字として達観できた事は、
逃げずによくやったと褒めてやってください。
さあ、元は出来ました。
次はどのようなエッセンスのものを用意するべきか、
どのような組み方を誘導すれば、
日本の庭の在り方を花形装飾活字に変換出来るのでしょうか。
次くらいからいろいろ繋がってきます。
次回へ続く。
2010/02/09
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/
花形装飾活字の何をローカライズするのかという点については、
かなりの多くの時間を費やしてきました。
今回はその事についてです。
問題点としては、
ローカライズの時点で英字に合わなくなる事は避けなくてはなりません。
という事は、
英字と花形装飾活字の関係性のみを意識していては、
日本語書体に合わした時に、
同じように英字では使えないものになるのは目に見えています。
何を底辺としローカライズとするのか。
ついつい、
離れた場所の文化と文化を相対して見る時に、
この場合はとくにそうですが、
近いものを搾取して見る傾向にあります。
そして、ローカライズも近いものがやはり基準になりがちです。
以前に、
花形装飾活字は高い確率で、
形式から離れ華やかになり技術的にも満たされたものは、
宮廷の文化を取り入れており、
一番近いのが建物と庭の関係であると書きました。
個々の美的センスや装飾は庭そのものから影響を受け、
総体的な配置の在り方は建物からの壮観そのものであると思うのです。
これをヒントに、
まず一般的な数奇屋造りの建物を調べました。
城ではなく家屋にしたのは特に理由はありませんが、
ただ、日本において「庭」という文化で遊んでいたのは家屋であり、
必ず庭がある数奇屋造りの建物には茶室が備えられ、
その関係性の密度は城(寺院も含む)では得られないと考えました。
もしかしたら城でやってたらまた違うもんが出来てたのかもしれませんが…。
今回は庭と密接という意味で家屋でした。
そして、いろいろ調べていく内に面白い事がわかります。
西洋の庭と日本の庭とでは明らかに違うものが浮かびあがってきました。
たくさんあったのですがキーポイントになったものだけ書きます。
日本の庭と西洋の庭の圧倒的な違いは、
イメージの所在です。
西洋の庭は全体を楽しむように庭と建物が一体となり景観を作り出しています。
人が庭に入り行くイメージも中心部分は変わる事なく、
その中心部分を維持したままの、
定着し完成された美意識をイメージの所在としています。
これは先のエンスヘデのものと意図が一致します。
一方、
日本の庭は中心が存在していません。
そもそも数奇屋造りの建物というのは中心が存在せず、
それぞれの部屋の役割で配置を決めています。
多くの場合に各部屋は庭に面しており、
庭を介してそれぞれの部屋にいけるようにも配慮がなされています。
そして面白い事に茶室に関しては外界からの風景を遮断するように配されているのです。
茶室については後々書いていきますので置いといて、
では、日本の庭のイメージの所在はどこか。
とある数奇屋造りの建物の客間で面白い事がわかりました。
結論をまず書きますとイメージの所在として「人」を中心に考えたのではないかと思うのです。
客間には上座と下座があります。
その建物の客間では上座から一切の庭が見えないようになっており、
唯一、下座に座った場合に上座の後ろにある2つの障子窓から紅葉が綺麗に見えます。
あ、あと2人が共通して見れる丸窓もありました。
そして一番ヤバイと思ったのが、
つまりそれは人が居ないと完成しないという事です。
あああ、伝わってますでしょうか。わかりますでしょうかこの違い。
単に建物と庭の風景ではなく、
これって凄く面白いと思うんです。
とある商屋では女中の部屋のみ一切の庭との関わりを作ってなかったりします。
厠(トイレ)の小窓からは最高の庭が見れたり、
大体が客間は2つあって縁側廊下の手前と奥にあります。
きっと奥には大切なお客人、
手前には簡単な所用のお客人なのでしょう。
大切なお客人は縁側を歩く事で庭を楽しむ事が出来きます。
庭の中を歩いて離れの客間に行けるパターンもありました。
イメージの所在、
この違いが情報伝達の在り方や「飾る」意識に影響があるのではと考えています。
実際にこれをタイポグラフィに変換した時にどういう変化があるのでしょうか。
答えは簡単です。
タイポグラフィそのものに破綻をきたします。
何故なら、日本語書体に飾りは不要だからです。
そういう意味でも朗文堂がおこなっている文字の再考というのは正しいと思います。
多分、わかっててやってるんじゃないかなと。
日本語の書体は飾っては成り立たないのです。
ではどうすればいいのでしょうか。
日本語書体に合う花形装飾活字は可能なのでしょうか。
単に整理するだけなら罫線やベタの塗りだけで十分です。
それじゃカッコ悪いんです納得いかない。
もしそうならむしろ活字での印刷ではなく、
キチンとした書道を版として刷った方が文字としての再考は正しいと思います。
どうせ追求してたらそっち逝っちゃうんだから。
でも、そうじゃないと感じるからこそ活字にしがみ付いているんじゃないでしょうか。
う、話が変わってしまいましたが、
つまり花形装飾活字のローカライズは可能だという事です(どういう事や…)。
イメージの所在。
そこまで辿り着いた時点で実は作業が止まります。
可能性は導く事は出来たものの、
上記のように実際に形にした時に、
装飾としての性能と整理としての性能を、
実際に日本語書体(英字書体も含めて)で生かす為の「図案」で成り立たせる事が出来るのかどうか、
という点において合点がいく答えが出なかったのです。
ので一旦形を模索するデッサンをおこなう事にしました。
その中で1つの回答を得る事が出来ます。
当初、人を中心とした建物と庭の関係を、
建物からのアプローチで人が見る庭という視点の図案を描き続けていました。
が、上手くいかない。
やはり、情報の在り方としての整理性が保てず、
文字と配した時に単なる挿絵のようなものになり、
花形装飾活字ではないものが次々と出来上がりました。
そこで、
数奇屋家屋調べていた時のある茶室の存在を思い出します。
その茶室は屋敷の中にあるにも関わらず、
庭との一切の関連性を断ち、
少し歩いた小さな竹林の中にありました。
相当広いお屋敷だったので、
もしかしたら有名かもしれません。
その茶室への道のりは次の通りです。
まず、
玄関を入り、
廊下に通されます。
廊下の右手には庭があり、
つまり上記で書いたような流れがあって、
廊下を降り庭の中を歩きます。
しばらくすると小さな門があり其処で手を清める事が出来ます。
くぐると竹林が広がっており道は無く、
石畳がただ茶室までの道のりを示しているのです。
その写真が凄くカッコよかったのを覚えています。
竹林は美しいのだけど、
むしろ規則的にアシンメトリーに並べられた石畳と奥にあるであろう茶室の存在が、
ああ、これだなと思いました。
たしかに他の数奇屋家屋も、
茶室に関しては異質というか別の扱いをしているような気がしましたし、
多くは廊下や部屋からは一切入れず(隣接しているのにも関わらず)、
庭から入るという手法を取っており家としての機能ではなく、
茶室の為に庭があるのだとも感じました。
そしてそのほとんどが誘導の為に「石」で道を作っており、
それをフォローする為に植物があるようでした。
後半、文体崩れましたが、
まだまだ続く。
2010/02/08
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/
どうしようもなくグラフィックデザインが好きなのです。心の底から。
それでいてずっと、
文字を綺麗に見せる方法を模索してきました。
その過程で出会ったのが花形装飾活字です。
この技術を自分のものにすべく研究(と言い切ります)を繰り返してきました。
最初に歴史上のものを調べる上で達観した、
エンスヘデ活字鋳造所シリーズ60の花形装飾活字。
これは恐らく花形装飾活字至上最強の技術とセンス、
そしてなによりも変えられない気配りによって作られたものでした。
次に、実験的制作を繰り返す中で出来上がった、
花形装飾活字fromIMAGEST。
これは現代の技術と歴史を通しての魅力を生かしつつ、
実用という意味で多岐なシーンに利用される事を目指しました。
そして今回、
「新・花形装飾活字『水草』」が完成しました。
ずっと考えていた事は、
英字の花形装飾活字に対して、
日本語(漢字と仮名)の花形装飾活字の思索が、
あまりにもお粗末であるという事です。
賞状に代表されるような装飾として在り様のみがクローズアップされ、
イメージの底辺としての相性は模索されていないように感じました。
恐らく、
「活版」という一括りの技術輸入だった上に、
元々の職人的美術文化の融合により、
西欧で使われた実際の技術的底辺を知ることなく、
ある意味で一遍通りな紙面の画一的美術の完成を見たのだと思います。
つまり今日まで、
日本における花形装飾活字というのは歴史的に、
ちょっと勘違いした状態で日本独自の(平仮名を開発したように)変換としての形が、
当時の描き文字文化とバッチリハマッタ状況にて、
使われ続けてきたのだと思います。
何故、英字の場合にあの装飾で違和感無く美しく使えるのでしょうか。
何故、日本語の場合にあのような画一的になるのでしょうか。
「水草」を開発する上で1つの大きなテーマになりました。
装飾の根本部分が文字との関係に強く作用している事は、
花形装飾活字に限らず全てのイメージに関係しているのは言うまでもありません。
西洋画と日本画の違いを見れば一目瞭然であり、
英字と日本語書体にも意味や形以外に、
イメージの底辺の部分で、
西洋画と日本画の違いのような根本があるようなのです。
それは言葉でくくる事の出来ない、
膨大な時間や言語変化による距離が関係している事はもちろんのこと、
文字そのものも美意識の部分として装飾的概念が強く働いています。
という事は、
花形装飾活字を扱う上で、
その利用や役割を踏まえれば、
当然のごとくそのイメージとしての装飾の相性というのは汲み取るべきものであり、
日本における花形装飾のローカライズの失敗は、
歴史的に利用されてきた経緯を含めても明白なものであると考えられるのです。
しかし、
重要な事はかならずしもそれが否定的な意味ではなく、
歴史や美意識的なところで、
今ある日本の花形装飾活字というのは間違ったものではないのだと言わなければなりません。
そして同時に過去のこれに関わった人に伝える事が出来るとすれば、
もう少し時間をかけて研究すべきであったと反省の部分として、
その研究は若干の浅はかさを感じずにはいられないという事は、
日本における花形装飾活字の衰退と、
現在にある日本語書体の欧米的なエッセンス全開(英字活字に近づけようという)を、
引き起こした引き金であったと言えると思うのです。
願わくば、
もう一度基本に戻って書体の設計をすべきだと追及します。
朗文堂がやってたりするが、
それでもメインストリームにあらず。
クウネルのようなすっきり書体が選ばれる原因は、
グラフィックデザイン、タイポグラフィの在り方が、
まだまだ西洋的であり、
その点においてもローカライズが不十分であると言えます。
何を根本とするか。
「水草」は花形装飾活字として設計しました。
まず、図案を見てなんだこりゃ?だろうから、それだけはちゃんと書いておきます。
花形装飾活字において、
もしくは日本語書体における英字よりも使いにくいよね現象というのは、
ある種の喪失のようなものであると考えています。
決して日本語書体は英字書体に劣ったものではないと言い切ります。
活字にした時に技術の部分やエッセンスが、
英字に近づいてしまってはいますが、
それでも英字に負けないぐらいのポテンシャルは秘めていると思います。
単にグラフィックデザインやタイポグラフィといった視点で見たときに、
葛西薫のポスター類が印象的ですが、
空間の使い方や写真のイメージの量としてのバランスを意識せずには、
作業が難しい、
もしくはバランスとして抜いたイメージが場を支配しないと日本語が入らないのです。
つまり、
日本語(あるいは漢字)はイメージそのものであると言えるのです。
中国で使われているような漢語との圧倒的な違いというのは、
平仮名の存在です。
漢字と平仮名の関係は、
まるで英字と花形装飾活字との関係に似ています。
わかりますでしょうか。
日本は印刷技術やグラフィックデザインの発想が輸入されるまで、
文字そのものが情報と装飾を兼ね備えたものとして扱われてきました。
いわゆる描き文字です。
例え交わっていたとしても、
あくまで分裂されたものであり、
現在の日本における花形装飾活字の扱いに似ているような気さえします。
これについては書き始めると当分続いてしまうので割愛しておきますが、
掻い摘んで書きますと、
グラフィックデザインというのは、
扱う側がどういった文化の底辺を持っているかで大きく変化するものであるという事です。
という事は花形装飾活字も同じ事が言えるのではないでしょうか。
歴史的背景や装飾のみの技術を掬い取って完成という訳にはいかないように思います。
もう一度、
花形装飾活字というものを、
文字を日本語書体をカッコよく見せる手段を考えるべきではないでしょうか。
当分続きます。