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2007/11/03
どんぐりを拾うと、ときどき、中に虫が入っていることがある。だいぶ前のこと、どこかで拾ってきたどんぐりを、小物入れのトレイの中に置いておいたら、なぜか、トレイの底に茶色い粉が散らばるようになって、それでもあまり気にしないで放っておいたら、ある日、入れていたキーホルダーのチェーンなどと一緒に、トレイの隅っこにぷりぷり太った白い幼虫が寝転がっているのを発見して、驚いた。茶色い粉は糞で、もともとどんぐりの中に入っていた幼虫が、中の実を食べて大きくなり、殻に穴をあけて出てきたのである。ゾウムシの幼虫らしい。親のゾウムシは、どんぐりに小さな穴を開けて卵を産みつける。堅い殻に包まれた中身はすべて食べ物。ゾウムシの幼虫にとって、どんぐりの中はこれ以上ないほどの快適空間だろう。
今回拾ってきたどんぐりにも、なんとなく穴の開いているように見えるのがある。紙コップの中に入れて置いているのだけれど、茶色い粉が落ちてやしないか、ときどき注意して見ている。
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2007/11/02
どんぐりの帽子とか座布団とかいわれているものは、「殻斗」と呼ぶそうだけれど、植物園の雑木林に、がさがさしたクヌギの大きな殻斗が落ちているのを見つけた。拾ってみると、殻だけで中身はない。近くに落ちているだろうと思ってあたりをよく見ると、立派なクヌギの木があって、地面には一面、どんぐりの座布団が落ちている。ところが奇妙なことに、殻ばっかりで、肝心のどんぐりがちっとも見当たらないのである。地面を眺めつくして、やっと見つけたと思ったら、つぶれてしまっているものや、土に埋もれて芽を伸ばしはじめているものなどばかり。
この不思議な現象に、思い当たる節は、先週植物園に来たときにいた、そろいの赤い帽子をかぶった幼稚園児たち。遠足シーズンだから、そういう子供たちが、毎日のように植物園にやってくるのだろう。大きなクヌギのどんぐりは、子供たちにとって宝物だ。みんなして、クヌギの木の下で一心不乱にどんぐりを集めたのではないかと思う。
子供に限らず、私もクヌギのどんぐりが大好きだから、目を凝らして、落ち葉の下や閉じた殻の中を調べて、ようやく10個ほどのどんぐりを集めた。それにしても、殻ばかりが無数に散らばった地面は、なんとなく異様な雰囲気がした。人海戦術というのは、馬鹿に出来ない方法である。
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2007/11/01
何年か前には、京都府立植物園のバラ園に結構多くの猫がいたのだけれど、痩せて毛のつやがなくなって、よだれをたらしている猫が何匹かいたから、病気が広がってみんな死んでしまったのかもしれない。しばらく、植物園で猫は見なかった。
それが先週の火曜日、天気もいいのでお弁当を持って植物園に行ったら、滑り台やジャングルジムなど子供の遊具がある広場の隅っこに、小さな三毛猫がいた。
あまり人には馴れていないのだけれど、ずっとにゃあにゃあ、にゃあにゃあと鳴き通しで、鼻先に手を持っていくと、伸ばした人差し指をぱくっと噛んだ。痩せていて、背中をなでると背骨がこつこつと手のひらに当たる。食べ物が欲しくて鳴いているようだった。
お弁当を食べてしまったあとだったので、食べ物は何も持っていない。なにか食べるものを買ってあげようと思って、たいしたものは置いていないと知りつつ、園内の売店に行ってみた。案の定、タンパク源となるようなものはなくて、スナックの類しかなかったから、パンと牛乳を買って広場に戻った。
ベンチの下で待っていた子猫にパンをあげたら、やはりよほどお腹がすいていたのだろう、パンをがつがつと食べた。牛乳も飲んで、少しお腹が落ち着いたようだった。
だいぶ日も傾いて風も冷たくなってきたからその日はそれで帰ったけれど、子猫のことが気になった。6ヶ月くらいだろうか。きれいな緑色の目をしていた。夜の寒さが、空腹に堪えるにちがいない。連れて帰ろうかと迷った。まだ子猫なら、みゆちゃんともうまくやっていけるかもしれない。
その次の日曜日に、とりあえずキャットフードを持って植物園に行ってみたら、三毛猫の姿は見えなかった。休みの日で人が多いから、どこかに隠れているのかもしれなかった。あるいは、器量のいい子猫だから、誰かがもらってくれたのだろうか。
また近いうちに、見に行ってみるつもりでいる。
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2007/10/30
10月22日は、京都三大祭の一つ、時代祭の日であった。
それをどうして今頃書くかというと、その日かその次の日あたりに書こうと思っていたのが、鎧兜の猫武者の絵を描くか、維新猫隊の絵を描くか悩んで、今日になってしまった。結局、馬に乗った猫武者も捨てがたいけれど、猫武者一人では行列のイメージが出ないので、維新猫隊を描くことにした。
それはいいとして、息子に馬や牛車なんかを見せたら喜ぶだろうと思って、時代祭の行列を見に連れて行った。
あとでニュースを見て知ったことだけれど、11万人もの人出があったそうで、沿道には人垣が出来て、その頭と頭のあいだから、背伸びするように見ると、やがて笛や太鼓の音楽が聞こえ出して、明治維新の時代から順に、時代衣装をまとった行列がやってきた。
維新志士隊の格好をした若い人たちが整列して歩いてくるのだけれど、みんなそれぞれ自由な髪形をして、前髪がやたら長かったり、上の方の髪がトサカみたいに立っていたりしている。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」とか土方歳三の「燃えよ剣」なんかを読んで思い描いたイメージからすると、だいぶ違和感がある。
違和感といえば、若い人に限らず、馬にまたがった年配の戦国大名が眼鏡をかけていたりするのも、なんだかおかしい。眼鏡がはじめて日本に伝わったのは、ザビエルがやってきた1549年で、国産品の製造が始まったのは江戸時代である。でも一方で、そういった違和感は、平和な現代のお祭であることの象徴みたいで、それはそれでいいような気もする。
豊公参朝列の中に、牛車があった。きらびやかな車を引く黒い牛は、もうだいぶ疲れてしまったのか、すこぶる機嫌が悪そうで、右に左に頭を振って蛇行しようとするのを、牛の両側についた数人が手綱を握って抑えている。
牛車が止まってしまった。どうするのかと思ってみていたら、牛は、振り絞るような声で、「モォーッ」と一声鳴いた。くだらない冗談みたいだけれど、確かに、「もう、いやだ」と言っているように聞こえた。
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2007/10/27
京都国立博物館に、狩野永徳の特別展を見に行った。狩野永徳といえば、狩野派を代表する画家である。その知名度の高さのためか、博物館はたくさんの人で込み合っていた。
恥ずかしながら、今回の展覧会を訪れるまで、狩野永徳の作品というのは、学校の歴史の教科書に載っていた「唐獅子図屏風」しか知らず、永徳の作風というのは、獅子に現れるような大胆で力強いものだと勝手に思っていた。したがって、館内に入ってすぐの花鳥風月の絵を見て、いささか驚いた。非常に繊細なのである。木の枝に止まる鳥たちの翼はバランスをとるために今にも羽ばたくかのよう、か弱い足でしっかりと枝を握り締め、細いくちばしは可愛い声を発するかのようである。草や花は風にそよぎ、赤く色づいた木の実は枝からこぼれ落ちそう。そういうひとつひとつのものが、緻密に、生き生きと描かれていた。そうかと思えば、唐獅子や、雲間に現れる龍など、気迫が伝わってくるような大胆な絵もあって、永徳とは、その二つを併せ持った人なのだと思った。
そのほか、壁画縮図などは、下書きのような線で描かれた絵に、ところどころメモ書きが入れられているのだけれど、そのタッチが、いまの漫画みたいで面白かった。
見ごたえがありすぎて、薄暗い照明の中で一生懸命目を凝らしたから、全部見終わって明るい青空の下に出たときは、ひどく目が疲れていた。
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2007/10/17
みゆちゃんが、台所でひと跳び、ふた跳びし、何かを追いかけていった。閉めた窓のところまで追い詰めて、サッシュのレールの隙間に逃げ込んだその何かを捕まえようと、手で掻いたり鼻を突っ込んだりしている。ゴキブリにちがいないと思って、憂鬱になった。ニ、三日前に、みゆちゃんが浴室の前の洗濯かごやバケツなんかを置いてある場所に座り込んで、何かを見張っているような様子だったので、そこに隠れていたのが出てきたのだと思った。
やがて、くるりと踵を返してこっちにやってきたみゆちゃんの口の端から、足とか触覚がはみ出しているのが見えた。どうしようかと思ってうろたえていたら、みゆちゃんが獲物をそっと床の上に置いた。またわざと逃がして、追跡ごっこをするつもりらしい。
みゆちゃんの頭越しにおそるおそるのぞいてみると、それはゴキブリではなかった。コオロギかと思ったけれど、それも違う。ちょうど、ゴキブリとコオロギの中間みたいな虫だった。カマドウマである。はじめて見た。コオロギみたいに三角形に曲がった後ろ足に、弓なりにカーブした体、恐ろしく長い触角。体長の4倍も5倍もありそうなこの触覚は、いったい何に使うのかしら。
カマドウマが窓の方へ向って逃げはじめた。追いかけようとするみゆちゃんを抑えて、急いで窓を少し開けたら、カマドウマはすぐにその隙間から庭へ出て行って、事なきを得た。
密閉性のあまりよくなかった昔の家屋では、カマドウマはよく見られたそうである。それが、最近の住宅ではほとんど見られなくなった。そのカマドウマが現れた我が家というのは、どこかに虫の出入りする穴でも開いているのかもしれない。その証拠に、廊下をダンゴムシが散歩していたり、なぜこんなところにこんな虫が、というようなことがときたまある。
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2007/10/17
白山スーパー林道まであと10キロ足らずというところでお昼時になって、そろそろお腹も空いてきた。「瀬女」という道の駅があったので、お弁当でも売っていないかと車を止めた。
昔の農家風の天井の高い土産物屋の中はしんとしていて、客は年配の男性客がただひとり、店番のおばさんはレジの向こうで静かにたたずんでいる。
おせんべいとか漬物とか土産物ばかりで、お弁当とかおにぎりみたいなものは置いていないようだった。この先、店もあまりなさそうだし、しばらくのあいだのお腹の足しにと、なにか饅頭みたいなものでも買っていこうかと思って店内を見ていたら、店に入ってすぐのよく目立つところに、「石川県推奨」というシールのついた真四角い竹の皮の包みがあって、中はおはぎだというような説明が書いてあったので、買ってみることにした。
包みの大きさからして、おはぎが四つほど入っているのだろうと思って開けてみたら、中からは予想を裏切って、巨大なおはぎがひとつ、にこやかに笑うおばちゃんの似顔絵のついたおてふきと一緒に、ずしんと出てきた。
夫と二人で四分の三ほど食べたところで、お腹がすっかり膨れてしまった。腹持ちのよさも抜群で、その後しばらくのあいだ、巨大おはぎが胃の中に鎮座しているかのようで、ちっともお腹が空かなかった。
この巨大なおはぎの名称は、「かいなもち いっぷくちゃん」である。
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2007/10/15
北陸道の尼御前SAで休憩をとったときに、すぐ近くに尼御前岬公園というところがあるというので、歩いて行ってみた。岬から浜辺の松林までの一帯が公園になっていて、杖をついた小柄な尼御前の像が立っている。源義経が都落ちしてここを通ったときに、足手まといになることを恐れた尼御前が自ら命を絶ったという伝説が、尼御前岬という名前の由来となっているらしい。
空はよく晴れていて、翼を広げたとんびが、松林を越えた強い海風を受けて、どんどん高みに昇っていった。小松空港に着陸する飛行機が高度を下げて空を横切ると、轟音がそのあとを追った。
岬から見る日本海は青く、その色合いは岸から沖へ離れるにつれて、四段階くらいに変化していた。ついこのあいだまでの夏日が嘘のような、秋の海である。風の中で虫が鳴いていた。
海の風にすっかり冷えて、風を防いでくれる松の林の中に戻った。よく手入れされた柔らかな芝生が広がっていて、その上に一面、茶色く枯れた松葉が散らばっていた。
広場の真ん中に、松葉が不自然に集まったところがあった。松葉がハートの形に並べられて、ハートの中に、イニシャルなのだろう、アルファベットが四つ並んでいた。
片想いの女の子か、幼い恋人たちか、それとも旅の風に若やいだ熟年カップルか。松葉のハートを作った人を想像した。
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2007/10/09
日の落ちる時間がだいぶ早くなった。すっかり暗くなってから実家の門をくぐると、庭に甘い香りが立ち込めている。知っている匂いなのだけれど、しばらく思い出せないでいた。金木犀だった。暗がりに目を凝らすと、庭の金木犀の枝に、ぽつぽつと、小さなオレンジ色の花が咲き始めていた。
ひとつひとつはとても小さな可憐な花だけれど、それが枝じゅう散らばるように咲いて、芳香を放つ。やがて花が落ちると、木の下の地面は、淡いオレンジ色の花のじゅうたんとなった。小さい頃、落ちた花をすくって葉っぱに乗せて並べ、花のお弁当にしておままごとをした。
いま住んでいる家の庭には、私たちが引っ越してくる前に、大きな銀木犀の木があった。秋が訪れるたびに、いい匂いをさせていたのだけれど、大きくなりすぎて伸びた根っこが裏の家の庭にまで到達し、やむなく切ってしまったのだという。隣のおばさんがそう教えてくれた。
庭には、それらしい大きな切り株があって、ときどき、みゆちゃんはその上に腰をおろしている。切り株の表面はもうすっかり黒ずんで、死んだようになっているけれど、切り株の周りからは、あたらしい芽が数本伸びて葉を広げている。その芽にはやく花がつかないかと願ってもう三年経つのだけれど、まだ白い花の咲く気配すら感じられない。
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2007/10/05
医食同源という言葉をわりと信じている。だから、食事の内容には結構気を使っているほうだと思う。二、三日に一回は魚を食べるようにしているし(と書いたところで、本を調べてみたら、一日一食は食べるべきらしいので、まだまだ改善の余地あり)、野菜もいろんな種類を食卓に乗せるように努力はしている。ちょっと前までは、「がんを予防する12品目群」の表を作って冷蔵庫に貼り、12品目が一、二日で全部取れるようにマグネットでチェックしながら、献立を考えたりしていた。12品目チェックはやめてしまったけれど、例えば、朝も野菜がたくさん食べられるように、生野菜のほかに野菜スープを作ったりというような工夫は続けている。今の時期は彩り豊かな秋野菜がたくさん出回っているから、毎日の野菜メニューを考えるのは、ちょっとした楽しみでもある。
食事の面では、そうやって気を使っているのだけれど、今の生活スタイルでは体を動かすということがほとんどなくて、慢性的な運動不足である。
少し前に、「猫とやせよう」という本が出ているのを本屋で見かけた。猫を肩に乗せてスクワットするとか、要するに猫をダンベル代わりにエクササイズするというような内容だったと思うけれど、ひとつやってみようかと思っても、いかんせん、そんな従順な猫は家にはいない。抱き上げた途端、後ろ足で蹴っ飛ばされて、さっさと逃げられるのがおちだろう。猫と体操するのはあきらめて、ゆっくりやってきた秋の風情を楽しんで、少し遠くまで歩きに出かけようかしらと思う。
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