岡田千夏

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京都府京都市

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  • 猫鳥合戦

     だいぶ寒さも緩んで、みゆちゃんが庭で過ごす時間が長くなった。庭で何をしているかというと、小鳥が来るのを見張っている。春らしくはなったが、山茶花の若木の下にじっと息を殺しているのはまだ寒いだろうと思う。にもかかわらず、みゆちゃんは根気よく、庭木に刺したみかんを食べに小鳥が来るのを待っている。
     ときどき見ていると、低姿勢でこそこそと木の陰から陰へ移動したりしている。本人はいたって真剣なのだろうけれど、たいして苦労もない家猫のくせに、虎や豹の真似事をしているのがなんだか可笑しい。実際は、たとえ張り込み中であっても、少し開けた窓の隙間から煮干の袋を見せると、にゃーんと言って飛んで戻ってくるから、野生の猫とは真剣さの度合いが違う。
     待っていてもメジロがこないこともあるが、飛んでくると、ますますみゆちゃんはじっと固まって、頭上の枝から枝へと飛び移るメジロの様子をうかがっている。ときどき、物陰からぱっと飛び出してみるけれど、もともと高い枝であるし、メジロはすぐに飛び立つから、捕まえられるはずもない。それを知ってか、メジロの方も猫をなめてかかっている。
     とうとうみゆちゃんは業を煮やし、メジロの木の下まで出て行って、にゃにゃにゃ、と小鳥に向って鳴き出した。無茶な行動に出たなと思ったのだけれど、意外にも、メジロの方も猫に向ってちきちきと応酬した。にゃにゃにゃ、ちきちきちき。
     やがてメジロは馬鹿にするように小さな糞をひとつ落として飛び立って、入れ替わりにもう一羽の別のメジロが飛んで来た。選手交代である。新しく来たメジロも、なにやらみゆちゃんとやり合っている。にゃあにゃあちきちき、話がついたのかつかないのか、しばらくするとメジロは去って、眠たくなったみゆちゃんは家の中に戻りまどろみ始めた。そのあと庭では、今度はメジロとヒヨドリが、ぴーぴー、ちきちき言い合っている。

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  • つぶす時間

     近ごろ、つぶす時間というのがあまりないように感じる。そういうと予定のぎっしり詰まった生活を送っているように聞こえるかもしれないけれど、そうでもない。予定がないからスケジュール帳を持つ必要もなくて、自分では買わないでいたのだけれど、たまたまどこかでもらったのがあって、一応使っているが中は真っ白である。予定はないのだけれど、家にいるときには漫然とやることがあって、暇でありながら、あまり時間もない。
     もっとも、「つぶす時間」という概念の見方の違いもあるかもしれない。空いた時間があると常からやりたいと思っていることをそこでやるから、自分ではあまり「つぶす」という意識がないのだけれど、人によっては、それが「時間をつぶす」ことだというかも知れない。
     外出するときには鞄の中にスケッチブックと文庫本を入れているから、待ち時間などが生じると、たいてい絵を描くか本を読むかしている。車が赤信号で止まったときなど、バス停や横断歩道で待っている人をスケッチする。信号が赤のあいだというのはたいして長くはないけれど、モデルはさっさと描かないとすぐにうろうろしてしまうから、赤信号の時間くらいに仕上げるのがちょうどいい目安である。
     今はあまり自由になる時間がないから、そういう細かい空き時間も利用しているけれど、いざ自分の時間を好きなだけ与えられたら、目いっぱい有効に使えるという自信はない。本来が怠け者の性分だから、時間があればあるほど後回しにしてしまう。自分にとっては少々時間が足りないくらいがいいのだと思う。

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  • 春近し

     桃の節句が過ぎ、啓蟄も過ぎたが、まだ道行く人は厚いコートを羽織っている。昨日は雪が降った。ちっとも気温が上らないから、実家の庭の水仙の花はいつまでもきれいに咲いたままで、先日、幾らか分けてもらった。いい匂いがするので部屋に飾ろうと思ったら、みゆちゃんがくんくんやって来て葉をかじろうとするので、仕方がないのでまたトイレに置くことにした。猫草と間違えたのだろうけれど、水仙には毒がある。
     今年の冬は長いらしいが、週間天気予報を見ると、当たるかどうかは知らないけれど、来週にはようやく暖かくなるらしい。毎年夏が終わって秋風が吹きはじめると、寒くなるのは嫌だなと決まって思うのだけれど、いざ冬になってみると、寒いのにからだが慣れてしまって、あまり気にすることなく日を過ごしているうちに、春になる。早く冬が終わるのはいいが、そうやって季節がどんどん巡っていくのだと考えた途端、急に恐ろしいような気もする。
     昨日降った雪もなごり雪で、真冬に降る雪とは様子が違う。空が明るいせいか、冬の暗さがなくて、どこか春めいている。春になるのはうれしいけれど、暖かくなって野山にも食べるものが豊富になったら、もうメジロは庭に来てくれないのではないかと思う。冬のあいだ毎日顔をあわせていただけに、あの可愛い姿が見えなくなるのはさびしい。
     先の水仙だけれど、みゆちゃんが花を食べることはないだろうから、葉を除いて花だけ挿せばいいと気づいた。部屋も玄関も、今この机の上も、水仙の冬から春へ漂う甘い香りがしている。

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  • ヒヨドリとメジロ

     メジロのために庭の木に刺しているみかんにヒヨドリが気づいて、食べに来るようになった。
     ちきちきと可愛らしいさえずりをするメジロとは違って、ヒヨドリはけたたましいきんきんした声で、全身を振り絞るような鳴き方をしながら飛んで来る。メジロが小さなくちばしで少しずつついばんで食べていたみかんを荒っぽく突っついて、中身をごっそり持っていってしまう。
     自分より体の大きなヒヨドリはメジロにとって至極迷惑な相手なのだろうけれど、私はメジロを可愛く思う一方で、ヒヨドリのことも好きである。子供の頃、家のベランダによくヒヨドリが飛んできたから、「ヒヨちゃん、ヒヨちゃん」と呼んでパンをやり、親しんでいた。
     ベランダに来ていたヒヨドリのうち、とくに馴れていたのがいて、頭の羽がぼさぼさしていたから「ボサ」と呼んでいたのだけれど、そのうちパンを私の手からじかに食べるようになった。手のひらの上にパンをのせて腕をいっぱいに伸ばすとボサが飛んできて、手のひらからパンをついばんでいく。
     やがてボサは細君を連れてきて、ベランダのすぐ横にひょろりと生えた杉の木の上に巣を作った。手を伸ばせば届くようなところだったから、ボサが寄せてくれた信頼の厚さに感動した。
     貴重な体験だったはずだが、雛がどのようの育って巣立っていったか、あまりよく覚えていない。覚えているのは、親鳥が雛のために捕らえてきたバッタか何かの虫の、きらきらするような鮮やかな緑色と、それから、まだ卵の時分だったと思うけれど、私が学校に行っているあいだに、杉の木の幹を一匹のシマヘビがするすると登ってきて、卵をひとつ呑んでしまったということである。ヘビが相手では親鳥もなすすべがない。けたたましく鳴きながら巣の周りを哀れに飛び回っていたそうだ。卵を呑んだシマヘビは、父が捕まえて裏の山に捨ててきたと言った。
     時がたって、もう死んでしまったのか、ボサは来なくなった。庭に植木屋が入ったときに、使われなくなった巣を取って貰った。枯れ草を上手に編んで作ってあって、雛が育つ巣の真ん中は、麦藁帽子をひっくり返したような、きれいな丸い形になっていた。その巣は、今も実家のどこかに仕舞ってあると思う。
     ボサの思い出があるからヒヨドリは好きなのだけれど、このあいだ、先に来ていたメジロを追い払って、隣家の庭の木まで執拗に追いかけていったのには閉口した。もっとも、うちに来るヒヨドリはまだまだ警戒心が強くて、人影を見ればすぐに逃げてしまうから、そのあとあまり人を怖がらないメジロがすぐさまやってきて、慌てるようにみかんをついばんでいる。

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  • にせ猫ちぐらの陥没

    しばらく見向きもしなかったくせに、ライバルである息子が持ち出してきたことからまた使うようになったみゆちゃんのにせ猫ちぐらであるが、最近は中に入って眠らず、ちぐらの屋根の上で眠っている。当然、にせの布製ちぐらであるから、そのままの形状を保持できずに、みゆちゃんの重みで隕石の落ちたクレーターみたいに丸く陥没している。その、少し身体が包み込まれるような陥没具合がみゆちゃんは好きなのではないかと思う。巣の中で鳥がうずくまっているような心地よさかもしれない。
     みゆちゃんが怪我をして我が家にやってきた年の冬にも、エアコンを消したあとみゆちゃんが寒くないように、毛布をかぶせたダンボールハウスを部屋に置いておいたのだけれど、やっぱり上に上って眠っていた。もともと中に入って寝るためのもので上に乗ることは予定していなかったから、屋根の強度は低く、みゆちゃんの重みで天井の中心が蟻地獄の巣のように徐々に沈んでいって、それでもみゆちゃんは気にせず寝ていたのだが、最後にはすっかり天井が落ちてしまった。そこで天井がへこまないように補強してやると、一向に使わなくなったので、やっぱり陥没しているのがいいのだろうと思う。
     この前読んだ「ネコの気持ちがよ〜くわかる本」という猫の気持ちを分析した本には、猫が両目を手で覆うようにして眠るのは明かりが眩しいためで、眩しいけれど飼い主のそばに居たいのでそうやって目を覆って寝ているのだということが書いてあったから、おそらくみゆちゃんも、私のそばに居たいがためにちぐらの中ではなく上で寝ているのだと思っていい気持ちになっていたのだけれど、この前の暖かかった日にちぐらと中の毛布を全部日に干してやったら、そのあと気持ちよくちぐらの中に潜り込んで寝ていたから、そういうわけでもなかったのかもしれない。
     みゆちゃんが入ると、にせちぐらの中はみゆちゃんの熱気がむんむんこもって、入り口に顔を近づけただけで温かい空気が感じられるほどで、中を覗くと、薄暗がりで真っ黒な目をしたみゆちゃんが、心地よさそうにのどを鳴らしてこっちを見ている。ボア生地で囲まれた小ぢんまりとした空間は居心地がいいに違いないのだろうけれど、もう春だから、またしばらくしたらみゆちゃんは、気候に即したもっと快適な寝場所に移動するのだと思う。

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  • 流し雛

     下鴨神社の流し雛を見に行った。
     雨に濡れた表参道の細かい砂利の上を歩いて、糺の森の奥にある神社を目指した。表参道が貫く糺の森はまだ冬の様子である。はだかの木が寂しく立ち並んでいて、森のむこうが見通せた。朝の雨は止んでいたが、葉の落ちたままの背の高い梢を透かして、曇った空が見えた。
     自分があまり寺社仏閣の行事に行ったことがないためか、意外なほどの人の出の多さに驚いた。観光バスまで出ているようであった。どこかのテレビ局もやってきていて、思いのほか大きな行事であるらしかった。神事が行われている御手洗川の周りには幾重にもかさなった人垣が遠くまで伸びていて、とてもその中で厳かに進められている神事の様子はわからなかったけれど、川に掛かる輪橋のたもとに生えた紅梅は、人々の頭の上を越えてきれいに咲いていた。尾形光琳が国宝「紅白梅図屏風」に描いた、有名な「光琳の梅」である。
     一度は止んだ雨が、また降り出した。あいにくの空模様ではあるが、御手洗川のほとりには白い和傘が二つ、三つと開いて趣を添えた。
     神事が終われば一般の参拝客が流し雛を流す番で、訪れた人々は稲わらを編んだ桟俵の流し雛を買い求め、御手洗川の清流に浮かべるときを待っている。雨を避けて境内の真ん中にある舞殿の軒下に入ったら、同じく隣で雨宿りをしていた女性が、両手で包みこむようにして持った流し雛を、慈しむようなまなざしで見つめていた。稲わらを編んだ丸い形の船の中に、可愛らしい雛人形が仲良く並んでいる。女性は、流し雛を胸にぎゅっと抱いて神事が終わるのを待っていた。
     やがて神事が終わり、参拝客たちは石段を川縁へと降りていった。石の川床が間近に見える浅い水の上を、それぞれの思いをのせた流し雛が、ゆっくりと、次々に流れていった。
     ずっと細くなった御手洗川の下流では、先の神事で流された流し雛が、一つ、二つと、水面に掛かる青草の陰に静かに浮かんでいた。ときおり、その川底がきらきらと光るように見えた。

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