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2008/01/17
近ごろ、朝の人間が起きる時間になっても、みゆちゃんは専用ベッドであるにせ猫ちぐらから出てこないことが多い。
そっとのぞいてみると、後ろ足を両前足で抱え込んでぐっすり寝ていて、顔も上げない。どこか調子が悪いのかしらと心配になるのだけれど、10時くらいになって、ようやく伸びをしながら這い出してくると、庭へ降りてなにかを追いかけたりと、別に普段と変わった様子もない。
そういうときに、部屋のあちこちをよく観察してみると、うさぎの毛のおもちゃがいつもと違うところにあったり、テーブルの上の小物入れに入れてあったはずのビニタイがテーブルの足のそばに落ちていたり、息子が拾ってきたどんぐりがひとつ猫トイレの横に転がっていたりと、みゆちゃんが夜中に遊んでいたらしい痕跡がいろいろと見つかって、そのために朝寝坊したのだということがわかる。
いったい、夜中のいつ頃起きだして、どんなふうに気が向いて一人で遊んで、そしてまた眠くなって寝てしまうのか、できることならカメラでも設置して見てみたい気がするけれど、そんなことはまあ無理だから、おそらく謎のままなのだろうと思う。
2008/01/15
家の前と裏庭に生えている山茶花の木は、まったく世話などしていないのに毎年この時期になるとたくさん花をつけてくれる、無精者の私にとってとてもありがたい木なのだけれど、たくさん咲く分落ちる花びらの量も多いから、しょっちゅう掃除をしなければならない。年末年始に木枯らしが吹いたときなどは、掃いても掃いてもどんどん散って前の道に飛んでいくから大変であった。
といっても、やっぱり利点の方が多くて、メジロは花の蜜を吸うために毎日庭を訪れてくれるし、一輪折って机の上に挿しておくと、ときどき顔を上げて、花びらの赤い色や、黄色いおしべがたくさん並んだ王冠の形などを眺めることが出来る。
もっとも、机の上に置いておくと、危険である。花瓶の水の好きなみゆちゃんが登ってきて、一輪挿しの狭い口から鼻を突っ込もうとするが、到底飲むことは出来ず、おでこに花粉がついて、白い毛が黄色くなってしまっている。
何度か花瓶を倒されたことがあるから、今では、散歩の途中に通りがかった雑貨屋の店先で見つけた、青い模様の入った壁掛けの一輪挿しに挿している。
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2008/01/11
5、6羽ほどいるペンギンのうち、他のものはみんな水から上がって日向ぼっこをしているのに、一羽だけ、プールの中で泳いでいるのがいた。それも、少し変わった泳ぎ方をしている。おなかを下にして、頭を出して泳ぐ姿はよく見るけれど、そのペンギンは、身体をよじっておなかを上に出している。羽の下をくちばしでこすっていたから、どこかかゆいのだろうけれど、それで苛々しているのか、ただ掻いているというよりも、身体を右に左にせわしなくよじって、ハイテンポなシンクロの演技みたいである。すると突然、ペンギンは水の中にもぐると、恐ろしいほどの速さでプールをぐるぐると回り始めた。南極の海中をすごいスピードで泳ぐペンギンの映像が時々テレビで流れるけれど、まさにあんなふうな勢いで、ときどき息継ぎをするのか、まるでイルカみたいに水の上へ飛び出したかと思うと、また美しい流線型を保ったまま水に潜り込んで、あっというまに反対側に達している。ときどきどうやっているのかわからないほどすばやく方向転換をして、逆回りをする。見ている人は、みんな嘆息をもらしながら、目が離せないでいた。
あとで、通りがかった飼育員の人にその様子を話して、そのペンギンの行動の意味についてたずねたら、自分はまだペンギンの担当になったことはないけれど、たぶんテンションが上がっていたのだろうということだった。
まるで、猫がはしゃいで廊下をだーっと駆けていくようで、ペンギンというのは、その姿の通りやっぱり愉快な鳥だと思う。
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2008/01/10
幼稚園の友達のお母さんと普段の買い物の話をしていたら、近所の寂れきったショッピングセンター(というより小さな商店の集まり)の中にある魚屋の魚が、じつは美味しいのだということだった。
本通に入り口があって、そこから京都らしい鰻の寝床のような細い通路が奥へと延びているらしいが、表から見ても薄暗くていかにも入りにくそうなので、いつも素通りしてその向こうのスーパーへ行っていた。
それを、その美味しい魚を買うために、きょう勇気を出して入ってみた。入るのははじめてである。
通路の両側にぽつぽつ小さな店が並んでいるが、外から見たとおりの寂れようで、営業しているのはほんのわずかである。商品が何もおかれていない豆腐屋や、なかには、一昔前のりかちゃん人形のおもちゃ美容院にでもありそうな棚や椅子が並べられた用途不明の一角もあった。どこも薄闇がかかっている。
時間を遡っていくような暗い通路の向こうに、ぼんやりと魚屋の白熱灯が見えた。魚の下に敷かれた氷の粒が、電球の明かりできらきら光っている。
おばさんが出てきてどれにしましょうというので、ぶりの切り身をふた切れ買った。
暗い通路を戻って本通に出ると、少しほっとした。
魚屋のおばさんがフライパンで照り焼きにしたらいいと言っていたから、そうすることにした。
じゅうっと焼きあがったのをお皿に乗せて、少しのあいだその場を離れていたら、ちょうど帰ってきた夫が、「ふくちゃん魚食べてる!」と叫んで、ふくちゃんの黒い背中がぴゅーっと走っていった。美味しいぶりだったので、つまみ食いはいけないと思いつつ、いい匂いについつい手が出てしまったのかもしれない。
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2008/01/10
天気もいいし暖かいので、動物園へ行くことにした。
途中、動物園から300メートルくらい手前の京都会館の前の道路を、黒白猫が横切ってくるのが見えた。道の幅が広いわりにはあまり交通量は多くないけれど、向こうからやってきた軽自動車が速度を落とす気配がないのでちょっとはらはらしたが、黒白猫は小走りに走って、無事道路を渡りきると、向かいにある勧業会館の植え込みの中へと入っていった。尻尾が根元で切れたように短くて、それがハートの形をしているのが特徴的であった。
動物園に着いて、キリンを見てサルを見て、おにぎりを食べてからまた動物を見て回っていたら、飼育舎の並びが途切れてベンチが置いてあるあたりの茂みの陰に、黒白猫の姿を見つけた。猫は、地面の上でなにかをついばむ二羽の鳩をじっと見つめていて、私は猫を見た瞬間さっきの猫だと思ったのだけれど、動物園の外からはだいぶ奥に来た場所であるし、よく似た別の黒白猫かもしれないと思いなおしはじめたときに、黒白猫が後ろを向いて、あの特徴的なハート型の短い尻尾が見えた。
動物園で猫を見るのは初めてだから、いったい何しに来たのだろうと思うし、なにより、さっき道で顔を合わせたときに、猫も私たちも動物園に行く途中だったという偶然が、何となく可笑しい気がする。
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2008/01/09
急ぎで必要なパソコンソフトがあったので、インターネットの店で在庫を確認してから昨日の朝注文したところ、東京の店からなのに、今日の昼過ぎに家に届いた。
何事もスピード化されたいまの世の中では当たり前なのかもしれないけれど、すごいなあと思う。
超特急で届けてくれるバイク便のニュースなんかを見ると、何もそこまで急がなくても、猫みたいにもっとのんびり行ったらいいのにね、などと思ったりもするけれど、いざ自分が頼むとなったら、深夜もトラックで走って翌日届けてくれるシステムは、やっぱりありがたい。
2008/01/08
冷蔵庫の中にしまったままになっていた柿がすっかり熟してしまって、柿の苦手な私はもとより、柿の柔らかいのが嫌いな夫も食べないので、庭に来るメジロにやることにした。
いつもメジロが花の蜜を吸いに来る山茶花の木のとなりの百日紅の、冬枯れした枝に半分に切った柿を刺して、まだかまだかとメジロの来るのを待ったけれど、なかなか柿に気がつかないのか、メジロが来ぬままとうとうその日は暮れてしまった。
次の日の朝起きて台所に下りると、ぴちぴちと可愛いさえずりが聞こえて、庭に薄緑色のメジロの姿があった。いつものとおりつがいで来て、かわるがわる柿の実をつついている。わずかな量の花の蜜を、花から花へとせわしなく飛び回って飲むよりも、一所にとどまって好きなだけ食べられる柿の方が、ずっと食べやすいにちがいない。味を占めて、メジロは何度も何度もやってきた。きょろきょろしながら柿の実をつついて、それが終わると、近くの枝に飛び移り、くちばしの両側を百日紅の枝にこすりつけて拭いている。その様子がとても可愛くて、いくら見ていても見飽きない。
みゆちゃんはというと、同じようにメジロを見つめている。時々、猫が鳥や虫に呼びかけるように鳴く鳴き方で、ひげを震わせ、にゃ、にゃにゃ、と鳴いている。そんなふうに鳴いてしまったら、相手に自分の居所がばれてしまうのではないのかと思う。なぜ、呼びかけるように鳴くのか不思議である。メジロには手の届かないのを知っているのか、あるいは、みながメジロを可愛い可愛いと言うのでやきもちを妬いているのか、みゆちゃんの後姿は、なんとなく面白くなさそうである。
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2008/01/07
平安神宮の裏の、丸太町から少し北へ入ったあたりは、細い道がごちゃごちゃと入り組んだところで、そこをうろうろしていたら、駐車場の横の塀にもたれるように座って日向ぼっこをしている黒白猫に出会った。黒い部分が少なかったけれど、ちょびひげもついていて、顔の雰囲気が少しデビンちゃんに似ていた。毛並みがあまり良くないところが何となく哀れっぽくて、立ち上がって歩き出したのを見ると、びっこをひいていた。今日みたいに暖かくて穏やかな日には、足の悪い野良猫も、少しはのんびりしていられるかもしれないけれど、後ろ足をひいて小道を歩いていく姿は、やっぱり悲しいような気がした。
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2008/01/04
初詣に行く習慣はないけれど、かといって、行かないことに固執する理由もないので、平安神宮に歩いていった。いつもは、買い物に行く地元の小母さんや近所のおじいさんしか通らない道に、よそ行きの格好をした参拝客が、たくさん歩いている。
案の定、平安神宮は人がいっぱいで、境内の中に入ったものの、本殿の前まで行くには、人がぎゅうぎゅうにつまった細い通路を進んでいかなければならず、その行列の両側には、「しばらくお待ちください」と大きく書かれた立て札を掲げた警備員が人に押されながら立っていたので、本殿まで行くことはあきらめて、そこで引き返して平安神宮を出た。
近くの公園で子供を遊ばせようと思ったら、神宮道に並んだカステラ屋とか鯛焼き屋とか焼きそば屋などの露店の業者の車両が公園の中にたくさん止まっていて、そのすきますきまにあるようなぶらんこや滑り台で少し遊んだあと、もう寒くて子供の手も真っ赤になってすっかり冷えきってしまったから、手をつないで帰った。
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2008/01/03
一年のうちで金時人参を食べるのは、お正月だけである。金時人参と聞いて決まって思い出すのは子供の頃に読んだ灰谷健次郎の「兎の目」で、黄色いカナリアに金時人参を食べさせると羽の色が赤く変わると信じている少年が、家に来た級友に、西洋人参ではだめで赤い金時人参でなければいけないのだと説明するのである。その級友も私も、人参には西洋人参と金時人参があるということをそのときはじめて知って、その印象が、いまもなお金時人参と「兎の目」を結び付けている。
「兎の目」は、それまでに読んでいた本とは雰囲気が全然違っていたから、最初は面白く読んでいたのだけれど、結局、終わりのほうあと少しというところでなぜかやめてしまった。覚えているのは、上の金時人参の話と、動物園での写生会ではやく遊びたい少年が、マントヒヒだったかマンドリルだったかの背景を残った絵の具を適当に混ぜて塗りたくったところ、偶然檻の中の薄暗い雰囲気がうまく表されて賞を取る話と、あの耳の長いウサギを表す漢字が、「兎」という不思議な形をした字であることを知ったということだけである。
そんなことを思い出しながら金時人参を切って、お雑煮の鍋の中に入れたら、濃い赤がぱっと広がって、思いのほかきれいであった。
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